鏡の法則とその批判

鏡の法則」やその批判がどんなものか知らない人はリンク先を見ていただきたい。俺が気になっているのは、この「鏡の法則」をどう解釈するか、というところなの。

鏡の法則」は、斜め読みすると何だかいい話なんだけど、きちんと読んでいこうとすると引っかかっちゃう人がいるという、そういう話だ。pavlushaさんのまとめが分かりやすいので、ちょっと引用させてもらおう。

 よく読むと、この話の全体構造は次のようになっています。

1.A子の息子がC君にいじめられる。

  ↓

2.B氏がA子にアドバイスする。

  ↓

3.A子がアドバイスを実践する。

  ↓

4.A子とA子の家族が和解する。

  ↓

5.C君がA子の息子をいじめなくなる。

うーん、実にわかりやすい。

この4.と5.の間に何の関係もないじゃないか、というのがもっぱらの批判で、こんなのにひっかかるようではA子さんは心配だ、という意見がちらほら見られるわけ。そして同時に、4.→5.のつながりがないからこそ、これは「よくできた作り話にすぎない」という意見もある。

で、ね。用心深いひとは「こりゃA子さんだまされてるよ!」って思うみたいだ。たしかにそう解釈もできる。でもちょっと待って。そんなだまされやすいA子さんのことをなぜ信用するの? 人の言う事をほいほい聞いて、十分以上に受け取ってしまうA子さんだもの。1.の「A子の息子がC君にいじめられる」というのが、A子さんの早合点だという可能性だって十分あるんじゃないの?

そうなると、この話は急に様相を変えてくる。5.の結論が出てくるのは当然だ。だってA子さんの息子は、最初からいじめられてなんかいないんだもの。何もしなくったってC君に謝ってもらったに違いない。
作り話である必要もない。「1.と5.」「2.と3.と4.」は、実はほとんど関係のない話が並行して進んでいただけで、因果関係はない、ということになる。B氏が悪い人で、うまいことして儲けようとか、A子さんを騙そうと考えてる、なんて勘ぐる必要はない。ただ誤解が誤解を生んだだけだ。

この「鏡の法則」に対する批判は多い。その中で、「B氏の発言は疑ったけどA子さんの発言を疑わなかった」人も多い。そういう人たちが、A子さんはだまされやすい人だ、なんて言ったりするけど、結局その人たちだってA子さんと同じ、だまされやすい人なんじゃないかな。ただ、どういうタイプのしゃべり方に騙されやすいか、それが違うだけだ。そういう考え方もできる。

じゃあ、鏡の法則が現実を変えたわけじゃなくて、B氏がA子さんを騙そうとしているわけでもないとすれば、この話の主題はいったい何なの? ここで重要なのは、1.以前と5.以降でくらべると、確実にA子さんの家族関係はよくなったということだ。で、それだけなの。そして、それこそがこの話の主題なんじゃないかと俺は考えてる。「気の持ちよう」で世界は変わるってわけだ。息子のことで心を痛めていたA子さんに新たな視点を与えることで、痛みの堂々巡りから視点をそらし、より発展性のある良い思考パターンに持っていったというわけ。

でも、注意して欲しい。「気の持ちよう」だからといって、どんなものでもいいってわけじゃない。例えば「息子といっても他人は他人、あなたが気に病む問題じゃない、息子さんは自分で何とかするはず」というメッセージでも、A子さん自身は救われただろう。だけど、そういう考え方を身に付けたA子さんは、今後は少しだけ家族に冷淡になっていくだろう。つまり、一時的な心の安寧を手に入れることによって、将来的にはより不幸になるだけだ。「気の持ちよう」といっても、それはけっこう難しい問題なんだ。

そういう意味では、このB氏の導入した「気の持ちよう」は、なかなか優秀なんじゃないかと思う。なんといっても、他者を理解しようという気持ちほど、人を救うものはない。喪の人には分かってもらえるんじゃないかな。A子さんが家族を理解し始めたことで、A子さんとその家族はちょっとだけでも幸せになるだろう。

B氏を胡散臭いという人は、しかし、A子さんの問題を解決できるだろうか? けっこう難しい問題だと思うんだ。