《雰囲気》という視点を通して

derorinmanさんところでとりあげられてる「自己の多元性」の話。若者の友人関係や自己意識の変化、という流れの中での話しなんだけど、

しかし、「自分がどんな人間かわからない」みたいな自己喪失感はとくに高まっていたりはしないので、単純にアイデンティティが衰弱してきているのではないようだ。ではそのアイデンティティの不確かさとはどういうことかというと、それは若者の自己の可変性や多元化にある。

こういうのを読むと気になるのは、「なぜ自己を多元化させなくてはならないか」ということなの。ふつう、自分を複数持つのなんてめんどくさいし、ややこしい。だからやりたくないし、やらない。でも彼らはそれを選ぶんだ。なんで? なんでわざわざ?

何かが、若者の自己を多元化させることを強いているんじゃないだろうか。もちろんそうだろう、何の理由もなしにわざわざ自分を多元化したりはしない。何かによって強いられていると考えるのは自然だ。じゃあ、何によって強いられているの? 《雰囲気》だ。《雰囲気》に強いられて、彼らは自分を多元化させられているんじゃないかと思うのだ。

id:derorinman さんはこう書く。

様々な自分のキャラを、いずれも本当の自分とする場合に比べ、その中に偽りの自分を見出す場合のほうが孤独感や虚無感を感じやすいのだ。

デネットのいう倫理でこれを考えよう。彼らは《雰囲気》に強力に支配されている。だから彼ら自身の未来の予測が難しい。《雰囲気》によって容易に左右されてしまうから。だから、彼らは虚無感を感じてしまう。生物はその進化の過程で協力行動によって大きな便益(つまり、危険を回避するという自由)が得られることを発見し、それゆえ協調性を発達させてきた。彼らは人間として大きく発達した協調性のうちのごく一部しか利用できていない。だから孤独感を感じてしまう。

自由は進化する

自由は進化する

柄谷のいう倫理によって上記を換言しよう。彼らが複数の自己を持つ以上、それぞれの自己は他人同士だ。しかし彼らが他人を目的とせず、手段としてしか扱わない以上、そしてその場その場の《雰囲気》に合わせて合理的な行動を採る以上、彼らは常に先の見える面白くない選択しか残されていない。彼らの属する《雰囲気》は欲望から自由であることよりも、欲望に支配されることを選び続ける。彼らには行動の自由がない。だから、彼らは虚無感を、孤独感を感じてしまう。

倫理21

倫理21

デネットも柄谷も、どちらもその倫理の基準に自由を置いている。

…そんなわけで、将来的にはオタクもより個の概念が小さく、近視眼的になる…つまり動物化していくんじゃないかと思うわけですよ。東先生もそう言ってたし。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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そしてもう一つ。ツンデレは自己の多元化というより、むしろそのツンツンした部分によって他の男を退けることができる、つまり「独占できるに違いない」と予測できるところにこそ魅力があるんじゃないかな。この傾向は進化し続けていて、今や逆転した関係として、女の子に支配され独占される主人公、というマゾエロゲ嗜好にまで達しつつある。どちらであれ、「独占性」という文脈からは離れていない*1

するとどうなるか? id:derorinman さんとの違うところを意識しながら、俺なりに考えてみよう。

  1. 今の若者は《雰囲気》に非常に弱い(というよりは、恐ろしく同調圧力という《雰囲気》が強いことが原因のような気がする)。
  2. 《雰囲気》に影響され、長期予測を立てることができない。また、個の範囲が非常に狭い。
  3. 動物的になる。
  4. 最終的には自分萌えしかない。
  5. しかし相手を独占したい!

じゃあ、最後はコレしかない。

沙耶の唄

沙耶の唄

沙耶ですよ沙耶。動物っていうか、その…ねぇ? もう、彼女の前ではイケメンとか喪男とかそんな分類は生ぬるい。これこそ喪のためのエロゲだと思うですよ。おまけにねこみみっぽいぞ!(<関係ない) 未来の萌え、俺はこっちだと思うなぁ(<それはない)

そうなると、5年後、10年後のオタク達の間では、「高飛車なくせに、何かと理由をつけては主人公と二人きりになろうとしたり、食べ物を渡そうとするツンデレお嬢様とかも、まぁ、たまにはいいけど、やっぱり基本は主人公をエサと思ってバクバク食っちゃうようなケダモノ少女が萌えだよね」「俺、体の末端からゆっくり齧られながら『○○君すごくおいしいよ?』とか言われるのがいいなぁ」なんていう会話がなされるようになるんじゃないかな。きっと。

…は、早く未来にならねぇかなぁ(どきどき)

*1:配偶者防衛本能によるものだと思うけど。