訓練と、その代替手段としての《雰囲気》

セックスと愛情との関連について、たまーに話に上がることがあるよね。いろいろな意見があるけど、主流なのは「愛情のないセックスはすべきじゃない」ってのと「セックスにそれ以外の意味を付加すべきじゃない」って意見だ。うんうん、どっちもいいたいことは分かる。でも、ここで何より重要なのは、愛情とセックスは多少は関連しているという事実と同時に、必ず関連しているわけでもない、という事実だ。事実は単純にそれだけなの(と俺は思う)。

多くの人間関係では約束問題が絡む。こうした「関連してないわけじゃないけど、かならず関連してるわけでもない」みたいな不確定さが、約束問題を引き起こすからだ。じゃあ、あなたは裏切られることを必ず覚悟しなきゃいけないの? そうでなければ、好きな人を必ず裏切ることになるの? 破綻が運命付けられてるの?

そうじゃない。そんなことはない。そうした劣悪な結果は訓練によって回避可能だ。あなたが方針を決定し、訓練することで、あなたに約束を守る能力があることを相手に伝えることができる。愛がないセックスはしない、とあなたが決断し、自分をそうなるように自分をあらかじめ訓練することは可能だ。同じように、愛情とセックスを関連付けない、とあなたが決断し、そうなるように訓練することだってできる。恋愛においてセックスが自由であるというのはそういう意味だ。そうやって自分の性のあり方を自己決定し、それに向けて自己を訓練し、約束問題を超えることができる。劣悪な現実の回避手段は一つじゃなくって、いくつもある。それらのうちのどれを選んでもいいし、新しいものを発見しようと挑戦してもいい。それこそがあなたの性が「自由である」ということなの。

しかし同時に、それはあなたの欲望のままに行動できなくなることを意味してる。約束問題を超えるためには、あなたは自分の本能のままにセックスすることはできない。本能のままに人を愛することはできない。しかしそれが現実なの。いくらがんばっても、残念ながらこの世界では無理なのであきらめて欲しい。あなたがこうした努力をせずに、そして相手の努力を評価せずにいるなら、あなたは約束問題を超えられないし、その関係は破綻する。あなたが今まで何度も破綻を経験したタイプの人間ならおさらだ。それは残念だけど、仕方がない。

ところで、約束問題と同様、破綻が目に見えてる関係というのはいっぱいある。例えば「共有地の悲劇*1」「囚人のジレンマ*2」などなど。こうした問題はどれもこれも、欲望に任せているとハマってしまう問題だ。でも、過去の人たちだってこうした問題をどうにかこうにか乗り越えたりしてきてる。なぜ乗り越えられたんだろう? それは社会の《雰囲気》によるんじゃないのか、と俺は思ってる。《雰囲気》によって、本人が納得できないことをさせる。《雰囲気》で押し流す。一歩先のことしか考えられない人たちにとっても、雰囲気は有効に活用できる。思考や訓練といった負担なしにみんなに提供できる。

非モテはどちらかというと女の子の問題」と俺がいうときに考えているのは、この部分だ。男社会が構築した社会様式は、そしてそれらによって作り上げられる《雰囲気》は、男の子のもつ本能によく対応している。例えば、男の子がみんな持ってる闘争本能というもの。これに対して、男の子は領域を分割し、便宜的な上下関係を導入し、明確化することで、無用な争いを起こさないようにしてる。これすごいことなんだよ?

女の子はについてはまだ、こうした社会様式が構築されていない(ように見える)。また、自身の性の本能的な特徴について女の子自身十分に理解しているとは言えないし、当然それに対処できるように訓練されているとも言えない。それは千鶴子たんが84年の時点で看破していたことだけど、20年たった今、いまだに進展しているように見えない。

*1:一歩先までしか読んでないとハマる。

*2:二歩先まで読んでてもハマる。