電波祭り

昨日、ロフトプラスワンの電波祭りに行ってきた。

まぁイベント自体がどんな内容だったのかは、2ch なり他のブログなりで解説されているだろうから俺が書くまでもないだろう。俺がこのイベントに参加した目的は本田氏の人となり、それから電波男の文脈をより深く知るためだ。

本田氏について俺はある程度人物像を予想していたのだが、ちょっと外れていた。しゃべり出すと止まらない、自己主張が激しく喜怒哀楽がすぐに顔が出るようなタイプ、というのを予想していたのだが、実際には終止にこやかなタイプで、ユルめで深いオタトークを展開していた。うーん、本田氏は大学時代の俺の先輩に似ているんだよな…*1。一方、しゃべり出すと止まらなかったのはゲストの竹熊氏の方だ。

イベント前半で本田氏が今後の計画について説明していたが、基本的な方向としては文学を目指すようだ。本田氏が明言したわけではないので憶測になるが、本田システム云々の部分はあくまで付随するものであり、キモメン文学の構築が主目的と考えているように聞こえた。なるほど。おざなりだとは感じていたが、文学を目指しているのであれば納得だ。

内部と外部は車輪の両輪、文学をもってオタクを内部から支えることは必要なことだし、是非頑張っていただきたい。可能ならもう一方の車輪、経済学と社会学を使って外部からオタク支援というのも頑張って欲しいと思う。思うのだが、しかし何から何まで本田氏に期待するのはお門違いというもんだ。

気になるのは、電波男の中を含め、本田氏のコメントの端々に「オタク=モテとの断絶」「サブカル=モテへの執着」のような先入観が見えるところ。そういった本田氏のサブカル嫌いな部分が、ポストモダンよりもモダンを、社会学よりも文学を、新古典派よりマルクスを、という傾向を作っている気がしないでもない。

俺の中には、電波男に対して「今さらマルクスかよ」「説得力を出すならニーチェじゃなくてもっと他にあるだろ、ほら」「そこで養老孟司を持ってこなくても」…などなど、ちょっと物足りなさを感じている部分がある。もちろん、この(俺にとっての)物足りなさが他の大部分の人にとってのわかりやすさ、伝わりやすさになるかもしれない。わかりやすさを優先するために、あるいはもっと別の重要な目的のために電波男が今の形になったのであれば俺も納得する。

しかし、本田氏のサブカル嫌いが間接的にこの物足りなさを作っているのだとすれば、そこは改めてほしいものだ。サブカルでもモテと断絶してるやつは多いのだから。

*1:雰囲気が関口さんに似ています。