シロクマさんの方法論に倫理を読む

ある行動がいいことなのか、わるいことなのか。その理由を考えることがある。例えば俺の場合で言えば、エロマンガを買うときとかだ。買うほうがいいんだろうか、買わないほうがいいんだろうか。買いたいんだとすれば、それはどうしてなんだろう? そして、そういう問いかけ自体にはどんな意味があるんだろう?

シロクマさんのエントリは、こういう「なぜ?」をどこまでもどこまでも、何回も何回も繰り返した結果の、誠実な回答だ(<シロクマさんありがとう!)。さて、人間は最終的に、こうした理由の探索を「もういいや」ってあきらめざるを得ない。まぁそりゃそうだよね。それ以上進んでしまうと、自分にとって問いかけ自体の意味がなくなっちゃう、そういう地点があるの。そうした、人間が思考停止するに足る探索の終着点こそが、その人にとっての倫理だ、という言い方もできる。カッコつきの、世間で言うところのいわゆる《倫理》ではない、ホンモノの倫理っていうのは、そういうものだ。

こうした思考の終着点がどこにあるのかは、人によって異なることは間違いない。ちょっと考えただけで終わりにしちゃう人もいれば、ずーっと深くまで考える人もいる。思考の探索をどこまでやるか。それによって人を分類することはある程度可能だ。

理由を知ることは、つまり、類推できるということだ。一段深く考える人は、一歩先のことを予測できる。予知じゃなくて予測であって、それは外れる事だって多いけど、それこそが思考の重要なところで、何も考えないのに比べればずっと効率がいい。責任ある大人だったら、健康とみなされる状態だったら、ほとんどの人は一歩先のことを必ず考えるはずだ。自分のこれからやること、やってしまったこと。得をしたのかな? 損をしたのかな? 周りの人はどんな風に思うだろう? こうした思考があなたの未来予測を助ける、

さらに思考する人は二歩先まで予測できる。なるほど、世界の仕組みは大体こんなもの、その中で自分はこんな位置にいて、この程度のコストを払えばこんな感じの便益が得られる…そういう予測ができる。でもこういう人は、一歩先までで満足する人に比べるとずっと少ない。感覚的には十人に一人というくらいを想定して欲しい。もちろん、社会的に構成に偏りが出ることも考慮に入れて欲しいな。一歩先まで考える人たちしかいない集団がある一方、ほとんどの人が二歩先まで考えることができるという集団もある。こういうタイプの人たちにも当然幅があって、自分の身の回りでうまく立ち回り、のほほんと生きていければいいや、という適当なタイプもいれば、社会を相手に大立ち回りをして、大金持ちになってやるぜ! というタイプもいる。でも、それは知識の幅が違うだけだ。思考の深さが違うわけじゃない。

さらに、三歩先まで考えることができる人もいる。この人たちはもっと少ない。百人に一人とか、そういう数しかいない。こうした人たちにとっては《雰囲気》――つまり世間的な価値観やら倫理観といったものはまったく様相を変える。なぜ、楽をしたいの? なぜ、大金持ちになりたいの? ……みんなが当たり前と考えていることすら、思考の対象になる。ここまで来てやっと、《雰囲気》を批判し、その未来を予測できるようになる。人は雰囲気に流されがちで、なかなかそれを対象として捉えることができない。でも、深い考察だけがそれを可能にする。こうやって、どれだけ深く考えることができるかというのは、生まれながらというものもあるけど、何より訓練の賜物だろう。訓練を重ねることで、人はより深い思考を身に付けることができる。

先のシロクマさんの方法論は、俺からするとどうしても、シロクマさんの倫理として読める。「コミュニケーションの重要性」と「未知のものの重要性」、そこで方法論が停止してる。なぜ、コミュニケーションが重要なの? そんなに重要だというなら、それはシロクマさんの目的なんじゃないの? とか思っちゃう。

なんにせよ、シロクマさんの認識のフレームにおいては、「利己的」「コミュニケーション」「インセンティブ」などの単語は、もう日常の意味でのそれとはかけ離れている。こうした言葉の使い方は、社会一般に漂っている《雰囲気》からも乖離してる。シロクマさんは三歩先を考える人のように見えるんだ。で、自由であるというのは、こうした人にとってのみ意味があるんじゃないか、と思ってる。自由というものの意味をふくめ、ちょっとそれについて説明してみたいんだ。