Innocent World で主題にすべきだったのは何か?

さて、本題に戻ろう。Innocent World で主題にすべきだったのは、一体なんだったんだろう?

「Innocent World」において、本田は「しゃっつら」を主題に置いた。確かにこの「しゃっつら」のおかげで(せいで)、大変難儀を強いられているオタクは多いと思うし、俺もそのひとりではある。

しかし問題はそこじゃない。そもそも、なぜ顔か? なぜ外見なのか? それは外見による判断が容易だからだ。生理的に、などということはほとんど問題じゃない。瞬間的に判断できるものなら、何でもいいんだ。もちろん深く付き合うことで分かるいいところもたくさんあるだろう。でもそれじゃみんなには分からない。それではみんなの評価が得られないんだ。

男性、女性に限らず、俺達はいくつかの明確な《客観的》価値観を持っている。一般論として。「お金はないよりあるほうがいい」「不細工より美形のほうがいい」とか、そういったものだ。君がこの価値観にコミットしている必要はない。この価値観が周囲に、空気のように当たり前に漂っていることを知ってるだけでいい。

君はこの《客観的》価値観に基づいて、瞬時に他人を評価する。これはもはや止めようがない。そしてその評価結果をみんなも知っている(と、君は信じるだろう)。みんなも同じように評価を下したからだ。そして相手も自分に対して同じように評価を下している(と、君は信じるだろう)。

そうした、瞬間的になされる、冷徹な評価に傷つかない人間がいるだろうか? 「若くて美人で金持ちでおっぱいの大きい女の子に比べたら、君らみんなどんぐりの背比べみたいなもんだよね」という、冷徹な評価に。

さらに言えば、男性はこうした《客観的》価値観から距離を置くことができる。「それでも君が好きだ」と言える。しかし女性は距離を置くことが難しい。文化系女子だろうがなんだろうが、この《客観的》価値観から逃れられない(みたいだ)。それがすべてなんだ。どんなに好きな相手がいても、一瞬の後にはもっといい別の人を好きになっているかも知れない。そうなることを防ぐための価値観を持たない。誠実であることは瞬間的には判断できないので、評価されない。

なぜ喪男の言葉が届かないのか。それは女の子自身が追い詰められているからだ。ではなぜ追い詰められているのか? 彼女達の《客観的》価値観、短期間の評価結果に判断を委ねる態度、そして彼女達の考える「自分」の狭さ。それらの導き出す結果が、彼女達自身の評価を下げ、傷つけているからだ。だから喪男に構っている余裕などない。自分が損をしないように、いい男を探さなくては!

Innocent World の主題には、《客観的》価値観が自分自身を傷つけるという問題を置くべきだった。いや、俺は置いて欲しかった、というべきかな。とにかく、ヒロイン・桧山玲於奈には、こうした切迫感がない。《客観的》価値観との葛藤がないんだ。単に生理的嫌悪感と戦うだけでいい。そんな女の子がいることだけで、物語は救われている。でも、それでは俺は救われないんだ。

だから俺は、本田に、もっと違うタイプのヒロインとのハッピーエンドを書いて欲しいんだ。女友達の中にある女の子を。同性の友人の中にあって、《客観的》価値観からの圧力に身を切り裂かれる女の子を。そんな女の子の話を書いて欲しい。その子だけが、俺達の救いになるはずだから。

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