その手の人向けの補足

先日のエントリでは女の子の集団に問題がある、と書いた。これがまた微妙なところで、「それが女の子の文化の特色じゃないの?」と反論しようとすれば反論できるところだ。でも、男性文化と女性文化というのを対比させた瞬間にそれはカルスタの文脈になっちゃう。そうなったら、後は泥沼化するだけだ。それを踏まえずに「それは男性的な思考だ」というだけで否定しちゃうのは勘弁して欲しい。そういうわなにはまらないように、人類の進化という尺度まで問題を引き下げてみたんだから。

女の子の文化の可能性を追求してもいいけど、宮台のことを忘れちゃいけないと思う。宮台は「流動性」に対する女の子の可能性に賭けて、そして失敗した。結局、恋愛に依存しながらもセックスの相手が頻繁に変わるような、人間関係の過剰な流動性には誰も耐えられなかった(その結果、女の子はメンヘルになった)。遠い未来にはそういう可能性もうまく行くかもしれないけど、今日の問題に対する答えじゃない、と俺は思うんだな。

カルスタついでに言えば、オタクはモテ文化におけるサバルタンだ、という見方もできる。その分析自体は正しいかもしれないけど、それが何の救いになるっていうの?

先日のエントリの補足

先日のエントリで俺がやりたかったのは、非モテ問題を捉える枠組み、フレームを作りたかったの。残念ながら、問題の解決方法を提案できてるわけじゃない。でも、問題の切り口で議論の方向が左右されることは多い。「非モテの原因は、男の外見しか見ない女のせいだ!」「他人に責任を押し付けるより、まず自分で努力したらどう?」という低ーいレベルの議論をいくらやっても仕方がない。

俺は、以下のようなことがらの組み合わせを使って、そうした議論に陥りにくいだろうという枠組みを提案してみたわけ。

  • 深く思考することは、《雰囲気》の支配から離れ、ほんとうの意味での倫理を求めることだよ。
  • 深い思考によってしか自由は享受できないよ。
  • 気の向くままにしたいことができる、というのは欲望に束縛されてるだけ。自由とは違うよ。
  • 自由とは、自分を訓練し、束縛することでより大きな可能性を手にできるということだよ。
  • 深い思考の代わりに《雰囲気》を使って、同様の効果を得ることもできるよ。
  • 女の子の集団は、はまだうまく《雰囲気》を社会様式として構築できてないよ。
  • とにかくデネットおもしろいよデネット

そういう意味で、単純に「非モテは女の子が原因」みたいに思われるのは心外なのね。先日のエントリの中で、集団と個人との違いを明確にしていなかったのはよくなかったと思う。俺が問題視してるのは女の子の「集団」。女の子なら誰しも経験があるんじゃないかな。学校のクラスやサークルなどでよくある、小規模の女の子同士の集団。その中での濃密な人間関係と、同調圧力。あの《雰囲気》は――と言えば、わかってもらえるかな?――ほとんどの人間にとっては苦痛であるにもかかわらず、なくならない。

あの《雰囲気》に接すると、たいていの男の子は引いちゃう。「女の子って、ときどき怖いね」とか言いながら。その意味では男の子には逃げ場がある。男の子の集団にはああいう《雰囲気》はほとんどないから、そこに戻ればいいんだ。もちろん、男の子の集団には別の問題が――DQNの集団とかが――あるけど、少なくともそれはコミュニケーションの問題じゃない(どちらかといえば暴力の問題で、それには法的に抑制をかけることができる)。

これが具体的に、非モテの問題とどう関わっているかって? んじゃ説明しよう。非モテの問題は、「ふつうの女の子個人」と「非モテの男の子個人」の二者間の問題として捉えられることが多いけど、これは間違い。男の子にとっては女の子しか見えてないけど、女の子にとっては男の子の他にも、たくさんの友達の、特に同性の視線がある。

 【男の子の世界】
 
        自分⇔女の子
 
 【女の子の世界】
 
        自分⇔男の子
            ↑
      たくさんの他人の視線

こうした理由で、女の子は無自覚なままに、男の子の外見を気にせざるを得ない。しかも、女の子自身、こうした傾向の行き着く先を制御できているように見えない。男の子の外見を重視することで、女の子はどれだけのメリットを手に入れたの? ――さぁ? …つまり、劣悪な状況に自身を追い込んでいるように見えるんだな。

これは女の子に固有の問題、女の子の「集団」の問題なんだけれども、それを女の子「個人」の問題として取り扱っても仕方がない。普通の女の子個人に何ができるっていうの? この問題に対して、男性は深く関わろうとしてこなかった。それでも責任を取ろうとすることはできる。例えばあなたが作家なら、問題解決のための男の子、女の子のロールタイプを提案すること。それは一つの責任のとり方だ。俺が本田に期待したのはそういうこと。でもね、それを本田に期待しなきゃいけない状況ってどんな状況よ? 喪男の癒しをやってもらったら、今度は女の子の癒しも? どこまでおんぶにだっこしてもらえば気が済むの? と、自分自身思うわけだ。

だから、今度は、俺が書こう。――これが、俺が先日のエントリで書き忘れていたことだ。自ら責任を引き受けること、それを実践しよう。俺がこのエントリを書いているのは、俺にとっての責任のとり方だ。「それは俺達の問題じゃない」と言って、俺は他者を切り捨てたりしない。女の子の抱える問題に関わりあおう。一緒に悩もう。

こういう本を読んで考えたよ!

俺の視点なんて大したことなくて、たった二冊でたどり着ける。

自由は進化する

自由は進化する

倫理21

倫理21

*1

これだけ。デネットの説明する自由が、柄谷が引用するカントの幸福主義批判とよく一致するんで驚いた。

それから、柄谷の本にはもう一点、「他者を手段としてのみならず目的とせよ」という倫理があったけど、これをもう少し具体的な位置で論じてるのは次の本になるんじゃないかな。

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

><

*1:なんだか、ASIN 記法でうまくいかないので、Amazon への直接リンク。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582702244

女子バブル、という用語を考えた

ぶっちゃけ、女の子は「わたし、雰囲気に弱いの」なんて言ってる場合じゃないと思うのよ。それが言えたのは、女の子が大きな責任を負えなかった時代だけなの。女の子は《雰囲気》に弱すぎる――集団の同調圧力に弱すぎる。もしこの社会の中で責任を負うのであれば、なんらかの対策をすべきだと思うよ。同様に、自身の攻撃性も自覚し、対策すべきだと思う。女の子だって十分に攻撃的だ。ただ、それは暴力じゃなくて、コミュニケーションの上で行われる。言葉で人は死ぬんだよ?

もちろん、こうした責任をすべて男(とくに喪男)に押し付けることは可能だ。でもそれしかできないんだったら、今まで何度も繰り返したように、自由じゃないの。主体性がないの。そこで「これって自分の問題じゃないの?」と責任を引き受ける自由こそが重要なの。女の子の一部は、こうしたことを明確ではないにしろ、自覚してるし、対策を採っている。リブの活動が手に入れた女性の自由は、彼女達のためにこそあるといってもいい。

そういう、三歩先を考えることができる女性のために導入された自由のはずなのに、自分の欲望を満たすためのものと思い込んじゃった女性が少なからずいるの*1。そういう女性は、好きなときに好きなことができること=欲望を満たすこと=自由、だと思い込んじゃった。そんなの、この現実世界では不可能なのに。たぶんね、女子バブルだったと思うんだよ、今までは。勘違いが見せかけの女性の強さを生み出してきたけど、それはやっぱりバブルに過ぎなかったんだ。その結果、男の子も女の子も、社会的にも不安を抱える結果になっちゃった。そこで新たな政策を投入……それは違うよね。原因を見つけたのなら、必要なのは対処療法じゃない。

訓練し、自己を律することで、現実に陥りがちなさまざまな劣悪な状況を避けることができるようにする。約束によって自分を束縛することで、さらに大きな便益を手に入れる。それができる、ということが自由だ。それこそが教育の目的とすべきところの一つであって、それを「我慢しろ、なんかよくわかんないけどそれがいいことなんだ」としか説明できなかったところに今までの教育の問題点があったと思うんだよね。

だけど、今はもう違う。必要なテキストは用意された(<デネット読んでみてよ)。いま必要なのは、問題を認識し、訓練によってそれを乗り越えることだ。非モテの問題を解決するために、脱オタしたり、ファッションセンスを磨くことは重要かな? 断じて違う。それは一歩先の視点でしかない。それは自由じゃないし、問題を引き起こす原因そのものであることは説明したとおりだ。

これが俺の、非モテ問題解決のための思考のフレームだ。問題解決のために新しい敵を作ったりしていないつもりだよ。敵はあくまでも、この劣悪な現実であって、喪男でも負け犬でもない。現実を見ろっていうのはそういうことだと思う。「分かりやすい敵がいない」なんて嘆かなくてもいいし、悪人がいないと成立しない解釈なんていらない

*1:女は色情狂になることを自由であると錯覚するように仕向けられている、って言ったの誰だっけ?

訓練と、その代替手段としての《雰囲気》

セックスと愛情との関連について、たまーに話に上がることがあるよね。いろいろな意見があるけど、主流なのは「愛情のないセックスはすべきじゃない」ってのと「セックスにそれ以外の意味を付加すべきじゃない」って意見だ。うんうん、どっちもいいたいことは分かる。でも、ここで何より重要なのは、愛情とセックスは多少は関連しているという事実と同時に、必ず関連しているわけでもない、という事実だ。事実は単純にそれだけなの(と俺は思う)。

多くの人間関係では約束問題が絡む。こうした「関連してないわけじゃないけど、かならず関連してるわけでもない」みたいな不確定さが、約束問題を引き起こすからだ。じゃあ、あなたは裏切られることを必ず覚悟しなきゃいけないの? そうでなければ、好きな人を必ず裏切ることになるの? 破綻が運命付けられてるの?

そうじゃない。そんなことはない。そうした劣悪な結果は訓練によって回避可能だ。あなたが方針を決定し、訓練することで、あなたに約束を守る能力があることを相手に伝えることができる。愛がないセックスはしない、とあなたが決断し、自分をそうなるように自分をあらかじめ訓練することは可能だ。同じように、愛情とセックスを関連付けない、とあなたが決断し、そうなるように訓練することだってできる。恋愛においてセックスが自由であるというのはそういう意味だ。そうやって自分の性のあり方を自己決定し、それに向けて自己を訓練し、約束問題を超えることができる。劣悪な現実の回避手段は一つじゃなくって、いくつもある。それらのうちのどれを選んでもいいし、新しいものを発見しようと挑戦してもいい。それこそがあなたの性が「自由である」ということなの。

しかし同時に、それはあなたの欲望のままに行動できなくなることを意味してる。約束問題を超えるためには、あなたは自分の本能のままにセックスすることはできない。本能のままに人を愛することはできない。しかしそれが現実なの。いくらがんばっても、残念ながらこの世界では無理なのであきらめて欲しい。あなたがこうした努力をせずに、そして相手の努力を評価せずにいるなら、あなたは約束問題を超えられないし、その関係は破綻する。あなたが今まで何度も破綻を経験したタイプの人間ならおさらだ。それは残念だけど、仕方がない。

ところで、約束問題と同様、破綻が目に見えてる関係というのはいっぱいある。例えば「共有地の悲劇*1」「囚人のジレンマ*2」などなど。こうした問題はどれもこれも、欲望に任せているとハマってしまう問題だ。でも、過去の人たちだってこうした問題をどうにかこうにか乗り越えたりしてきてる。なぜ乗り越えられたんだろう? それは社会の《雰囲気》によるんじゃないのか、と俺は思ってる。《雰囲気》によって、本人が納得できないことをさせる。《雰囲気》で押し流す。一歩先のことしか考えられない人たちにとっても、雰囲気は有効に活用できる。思考や訓練といった負担なしにみんなに提供できる。

非モテはどちらかというと女の子の問題」と俺がいうときに考えているのは、この部分だ。男社会が構築した社会様式は、そしてそれらによって作り上げられる《雰囲気》は、男の子のもつ本能によく対応している。例えば、男の子がみんな持ってる闘争本能というもの。これに対して、男の子は領域を分割し、便宜的な上下関係を導入し、明確化することで、無用な争いを起こさないようにしてる。これすごいことなんだよ?

女の子はについてはまだ、こうした社会様式が構築されていない(ように見える)。また、自身の性の本能的な特徴について女の子自身十分に理解しているとは言えないし、当然それに対処できるように訓練されているとも言えない。それは千鶴子たんが84年の時点で看破していたことだけど、20年たった今、いまだに進展しているように見えない。

*1:一歩先までしか読んでないとハマる。

*2:二歩先まで読んでてもハマる。

ところで約束問題ってなによ?

約束問題というのは、便益を今得るために、コストを後で支払うと「約束」する時に発生する問題だ。ところで、こういう形の約束は多い。典型的には借金とかね。等価交換のそれぞれの支払いに時間的な距離がある場合だと考えてもらっていい。

で、問題はこういうことだ。あなたが今もってる「今の財産」と、俺が将来手に入るであろう「未来の財産」を交換しましょう、そのほうが二人にとってメリットがたくさんありますよ、と。そういう状況を想像して欲しい。んで、そのとき、俺もあなたも、その交換が「等価交換」であることを納得する。だから、その交換は妥当だと考える。交換してもいいよ、と約束する。

そのあと、実際の交換となるわけだけど、まず俺はあなたの「今の財産」を受け取る。ここまではいいの。重要なのはその後だ。時間が経ち、俺が「将来の財産」を手に入れ、あなたにそれを支払うことになる。その時、俺は必ずこう思う。『気が変わった。支払いたくない。』 約束なんて知ったことじゃない(実に自然な考え方でしょ?)。そうなると、支払わないために俺はいろいろな言い訳を用意するだろう。それであなたを納得させることができなければ、今度はケンカだ。そういう結果になることは十分にある。

そうなると、約束問題は別の局面を迎える。途中で気が変わってしまうのは実に自然だし、だからみんなそう考えるだろう。するとみんな約束なんて守れないんだから、時間的な距離のある交換ができなくなってしまうことになる、という問題だ。その交換があなたに(そして俺に)どれだけ多くのメリットをもたらすとしても、その選択肢を捨てなきゃいけない。それはとても不自由なことなんだけど、だって仕方がないじゃん、俺自身ですら気が変わるのを押さえきれないんだもの。これはどうにもしようがない現実なの。

では、この劣悪な状況を越えて、よい結果を得るためには――約束をするためにはどうしたらいい? 俺が約束を守れるようになるには、あなたに俺を信用してもらうためには、どうしたらいい? これが約束問題で、先に挙げた劣悪な状況の一つの標本だ。よりよい答えは誰しも分かっているのに、実践できない。

こういう、本能的な問題に対応するためのものが訓練なんだ。あらかじめ準備し、訓練することで、約束問題は超えられる。自分を訓練しようとするのは人間だけに見られる行動で、つまりこれこそが人間らしい行動だということもできる。

自由って何? ということに対する合理主義者への説明

自由というのは、単純に欲望を満たすことじゃない。「○○したいからする」「△△したいからする」これが欲望を満たす一番手短な方法だけど、現実的には絶対無理。もしあなたが、自由というのが「したいことがなんでもできる」ことだと考えているのであれば、それは絶対に満たされないよ。というのも、ホッブズの権利観「万人に対する万人の闘争」を考えれば明らかであるように、人間の求める権利は他者と絶対にぶつかる。ぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。残念だけどこれは現実で、どうにも変えようがない。あなたがどんなにがんばっても、どんなに正当性を叫んでも、この現実だけは変えられない。

繰り返すけど、あなたの欲望をそのまま突き進めれば他人とぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。これは現実で、変えようがない。あなたが欲望すればするほど、状況は悪化する。

だとすれば、じゃあ自由ってなんだろう? 

あなたの行動が誰かの心を傷つけてしまった。そういうことってよくある。例えば、あなたが不倫の結果妊娠してしまったりして、それを中絶してしまった場合など、だ。でも、あなたはそのことについて、誰かに責任を持たなきゃいけない必要があるの? 謝らなけりゃいけないの? 法的に言えば「あなたは謝る必要はない」ということになる。でも、これは、あなたに責任がないといっているわけでもない。つまり、あなたには謝っても、謝らなくてもいい、という自由があるということだ。そう、あなたは謝ることができる、責任を自ら引き受けることができる。あなたは自分の行動に、好きなように枷をはめることができる。これこそがまさに自由なの。三歩先のことまで考えれば、責任を持つほうが望ましいことがあるの。罪を背負うことが望ましいことがあるの。

俺達の世界は、まだまだ計算不可能性に満ち溢れていて、だからこそ時間についていえば未来に開かれているし、社会についていえば他者に開かれている。だから、新しい問題の解決法なんていうのはまだまだ、いくらだってある。あなたは自由に、問題の解決法を発見していい。挑戦していいんだ。それこそが「自由」の最も重要な意味だ。未来のために、敢えてあなたはコストを今支払うことができる。

でも、一歩先のことしか考えない人は、こういうとき、常に「責任を負わない」「罪を負わない」という選択肢しか選べない。彼らには、自由を享受する能力がない。いつも既存の問題解決法に頼ろうとする。彼らの結論はいつだって同じだ。彼らの思考は「約束問題」を解決できない。より分かりやすい、劣悪な状況へとまっしぐら、というわけ。

あなたは責任を負わなくてもいい。私は悪くなかった、と言い張ってもいい。でも、みんながそういうことを言っちゃう社会って、ホントに住みやすいの? そういう問題を考えない、考えたくないあなたは、三歩先を考える人間にはなれないし、したがって自由でもない。ただ、劣悪な状況へと突き進んでいくだけだ。自由というのはそういう概念だと俺は考えてる。