本田透 (2005) , 電波男, 三才ブックス

昨日、出張帰りに寄った新宿の紀伊国屋で、『電波男』を入手した。楽しみにしていんだが、読み進めてみるといくつか気になる点が出てきた。そこでネットで調べてみると…
あれれ。みんなぜんぜん、電波男の本質を理解していない。少なくとも俺が見ている「本質」は誰もまだ語っていないように見える。
これはちょっと主張せねばと思い、さっそくはてなで書いてみることにした。

本田透とリチャード・ストールマン


最近いろいろな本を読んでいる。俺自身はIT系、特にオープン系なのでフリーソフトウェアのお世話になることも多い。そういったわけでフリーソフトウェア業界の大御所、リチャード・ストールマンのエッセイ集「フリーソフトウェアと自由な社会」を読んでもいるのだが、これと「電波男」は共通した部分がある。

「俺たち」「私たち」。

リチャード・ストールマンは繰り返しソフトウェア利用者の便益と隣人に対するボランティア精神を主張する。一方、本田透も繰り返し喪男のオタクに対する便益と同情、救いを主張している。どちらも、自分が属している集団を明確にし、それらが置かれた厳しい状況に対して少しでも改善される方法を主張している。
自分たちが置かれた状況を俯瞰する観点と、集団に対する互恵精神。そして両者を持つがゆえに生まれる公正さ、という価値観。これが二人に共通する特徴なんだな。

互恵精神の無理解


もばいるたいぷさんのところにあるが、

局地戦うんぬんの話を書いている人がいたが、この意見には賛成。局地を無理に汎用にしても歪みしか出ない。大事なのは今の自分の立場であって、そこを通さずに他者の意見に傾倒してどうすんだ?と。

電波男に対し、この読みは足りない。本田が救いたいのは自分だけではない。夏の葬列を見よ。これを読んでどう思っただろうか。人により感想は違うだろう。しかし本田はおそらく、これを読めば泣く。血涙を流して、そして言うに違いない。「俺の力でできる限り、お前を救う」と。それこそが本田の原動力であるルサンチマンなのだ。個人的なものでしかないとわかりきった不快感ではルサンチマンにはならない。同じ状況下に置かれた仲間を救いたい。その互恵精神こそが本田の本質なのだ。
だから、局所戦では意味をなさない。「オタク」という広い範囲に広がる仲間をみんな救いたいのだから。俺はたぶん、本田自身は恋愛資本主義下でそこそこ生きていけるんじゃないかと考えている。しかし本田自身はそれを肯定できないんじゃないだろうか。それは「恋愛は金でも顔でもない!」を信じつづけた仲間に対する裏切りになるから。じゃあどうすればいいのか。残された方法は仲間全員を救うしかない。
自分を救うために、仲間全員を救う。それが電波男の目的なのだ。

電波男の弱点


読み物としての電波男の最大の弱点は、その告発がオタク(というよりむしろ喪男)の視点以外を欠いている点だ。もちろんこれは意図的でもあるんだけど。

電波男の告発の一部は、「世界を俯瞰してみると、女は、そして恋愛資本主義喪男に対してこんなにひどいことをしているんだ!」というものだ。しかし、これは世界を俯瞰した上で喪男が抱く意見に過ぎない。恋愛資本主義にとってその意見は不本意だし、女性にとっても不本意だ。実はこの三者の意見はそれぞれバラバラだから、こういう対立が発生する。
ただ電波男はその目的上、女性や恋愛資本主義を擁護する必要はないし、その意見を示す必要もない。だから替わりに俺が示してみることにする。

三十女の主張:「われわれはそんなに腹黒くない!」


これはそのとおり。なぜなら三十女のほとんどは本田が描いたような経済構造を考えたことなどないんだから、自覚していない行為の罪を問われているわけ。たいていの女は、もっと直感的に(もっと短絡的に、もっと場当たり的に)行動している。
さらに言ってしまおう。電波男の主張の一部は「女が男と同じ精神構造で行動しているなら、こんなひどい仕打ちをする女というのはひどい生き物に違いない」というものだ。だが悲しいかな、(たいていの)女の精神構造は男と同じではないのだ。

彼女らはこういう。「考えすぎじゃないの?」ああ、これは俺が何度言われたセリフか!

考えない、ということができねぇんだよ!

そうなのだ。考えないやつはどんなに努力しても考えることができないように、考えるやつはどんなに努力しても考えないことができないのだ。だからニーチェも死んでしまったのだ。本田は考えるタイプだった。それだけならまだしも、互恵主義者だった。
本田は、そして考える喪男たちは、彼女たちとはあきらかに異質である。それはどちらが正義かという話でもない。お互いがお互いに期待しているものを返す能力がない。それはまるでショーペンハウアの描く暗黒世界のようだ。

恋愛資本主義の主張:「だってそれが市場ってものじゃないか」


電波男電通やその他の恋愛資本主義を形成する企業に対して「搾取だ」と告発する。しかし企業としても言い分は当然ある。「買い叩けるところから安く買い上げて、高く買ってくれるところに提供する。それが市場ってものじゃないか」。これもそのとおり。ただ問題はある。俺らのその目の前で市場取引が行われている点だ。

人間の経済活動は大きく4種類に分けられる。

  • 贈与
  • 共同分配
  • 等価交換
  • 市場取引

この中で、もっとも多くの場面で見られるのが等価交換だ。コンビニで買い物をするとき、130円のおにぎりを買うには130円の現金が必要になる。非常識なオヤジは別として、コンビニでは値切ったりできない。この取引は直感的で、誰でも分かる。みんな平等だ。
一方、ほとんど目にすることがないのが市場取引だ。これはいまや、製造者と問屋、といったいわば企業間でしかおこなわれることがない取引だ(いちおうネットオークションは一般人も参加できるけど)。専門的な知識があれば有利になる。なければ損をする。そういう取引だ。
問題が起こるのは、お互いの取引のやり方が一致していない場合だ。俺らがコンビニに行くときは当然等価交換を期待している。しかし相手が市場取引をはじめたらどうなるか? それが争いの発端になることが多い。だって、もしおにぎりを買おうとしたとき、「最後の一個なんで1300円になります」と言われたらムカつくよね。

消費者としての俺らは小売レベルの等価交換においてはじめて平等なんだ。ところが恋愛資本主義においては小売レベルまで市場取引を求められる。こいつはきつい。やさしさを与えて与えて、でも帰ってくるのはほんのちょっと。その隣ではほんのちょっとのやさしさで大量のおもいやりを受け取れるやつら(イケメンDQN)がいる。こいつを目の当たりにするのはきつい。おまけに自由恋愛、なんて言葉を盾に通常の商取引のルールさえ守られない。まさに無法地帯なんだ。
でも、企業としてはそんなこと関係ない。商法の枠の中で、株主さまの前に利益を上げるのが企業の役目だ。そういうことになっている。そしてこの分野にはまだ法がないんだ。なぜ企業が自粛する理由がある?

萌えという人類の発展


衣食足りて礼節を知る、とあるが、実際には礼節の前に異性が欲しくなるもんだ。

食欲と睡眠欲を満足させることについては、この六十年でずいぶん改善された。これは工業化と大量生産が大きな役割を演じている。しかし性欲についてはどうか。皆婚社会から希婚社会への転換が起きている。これは自由化による二極化といってもいいが、喪男については改悪といえる状況だ。

ホッブズによれば、世界は万人の万人に対する闘争だという。対人関係は常に苦痛と隣り合わせだ。われわれは居心地のいい対人関係のあり方を常に探してきたといってもいい。
大量生産と金(資本)は、居住空間と食料を対人関係から自由にした。いまや、濃密な人間関係を体験することなしに食料が、居住空間が手に入る。人間関係が欲しければ手に入れればいい。拒否する自由ができたことが問題なのだ。
一方で恋愛はどうか。恋愛は、居住空間や食料と違い、人間関係そのものだ。大量生産できない。金でもどうにもならない。婚前交渉が一般化した結果、かつての一夫一妻制がもたらした結果の平等は失われ、自由恋愛による機会の平等へとシフトした。喪男にはつらい状況になった。そのつらい人間関係を拒否することができないのだ。

さて、ここで電波男の主張に戻る。萌えはデジタルだ、という価値観はこの状況を解決する。デジタルは大量生産できる。人間関係と恋愛を切り離し、恋愛を安価で自由に手に入れることができるようになるのだ。これは人類の発展といっても過言ではない。電波男におけるこの主張はもっと積極的な、大きな扱いを受けてしかるべきだ。

誤解を避けるために敢えて言えば、友人、家族、そういった人間関係は大切にすべきだと思う。しかし株式市場の取引に見られるような丁丁発止の人間関係は、その道の専門家だけがやればいいじゃないか。

「ほんだシステム」の可能性


俺自身は実のところ、「ほんだシステム」は提案レベルとしては面白いと思っているが、実現は経済的にむずかしいと考えている。

ほんだシステムの要は「オタク市場」の生産性だ。正確に言えば、オタク市場の生産性向上率だ。他の市場よりオタク市場のほうが生産性向上率が高ければ、自給自足をはじめたときに他の市場との貿易において黒字になる。自立したまま市場を大きくできる。一方、オタク市場の生産性が低ければ当然赤字が続き、解体しなければいけないことになる。アメリカでは60年代に大量の自給自足のコミューンが発生したが、ほとんどのものは数年で破綻してしまった(宗教を基盤に置いたものはもう少し長く続いたが、それも結局は破綻した)。

経済は取引で成り立っていて、流通量のない公正な取引よりも大量の不公正な取引のほうがより高い成長をもたらす場合がある。痛みを伴っても恋愛資本主義に取り込まれたほうが得策となる可能性も大きいのだ。

唯一、オタク市場が活路を見出せるのはそのゆるい著作権の捉え方だ。かしこで主張されているように、現状の著作権法は産業規制となっており、その成長を妨げている。オタクが著作権をいわばゆるい形で運用することにより、その規制から逃れられる可能性がある。この場合は本来の成長率を得ることができるので他の市場に対して十分な競争力を持つことができるようになるかも知れない。

いずれにせよ、オタク市場が大きくなることは間違いない。恋愛資本主義と距離を置けるかどうかは別としても。

まだまだ続くよ電波男


電波男はネット上にこれまで散在していたオタクの恋愛について、荒削りながらひとつのマイルストーンを置いた。このテーマで語るべきことはまだまだある。ニートの問題も関連して語られるべきだし、個人的にはデジタルコンテンツの分野において互恵主義が経済に与える影響に特に興味がある。

ああ、とにかく俺としては、世論は利己主義だけが合理的、とでも言わんばかりに利己主義に走りがちだし、それは誰にも責められない、と嘯いているのが気になって仕方がない。実際には人間はそれほど合理的ではないし、利己的でもない。だからこそ、ポストモダンが前世紀的な合理性を断罪することで状況を改善できる余地がある。恋愛は3次元、というロゴスを電波男はすり抜けたのだ。と言ったら言い過ぎか。