萌えという人類の発展


衣食足りて礼節を知る、とあるが、実際には礼節の前に異性が欲しくなるもんだ。

食欲と睡眠欲を満足させることについては、この六十年でずいぶん改善された。これは工業化と大量生産が大きな役割を演じている。しかし性欲についてはどうか。皆婚社会から希婚社会への転換が起きている。これは自由化による二極化といってもいいが、喪男については改悪といえる状況だ。

ホッブズによれば、世界は万人の万人に対する闘争だという。対人関係は常に苦痛と隣り合わせだ。われわれは居心地のいい対人関係のあり方を常に探してきたといってもいい。
大量生産と金(資本)は、居住空間と食料を対人関係から自由にした。いまや、濃密な人間関係を体験することなしに食料が、居住空間が手に入る。人間関係が欲しければ手に入れればいい。拒否する自由ができたことが問題なのだ。
一方で恋愛はどうか。恋愛は、居住空間や食料と違い、人間関係そのものだ。大量生産できない。金でもどうにもならない。婚前交渉が一般化した結果、かつての一夫一妻制がもたらした結果の平等は失われ、自由恋愛による機会の平等へとシフトした。喪男にはつらい状況になった。そのつらい人間関係を拒否することができないのだ。

さて、ここで電波男の主張に戻る。萌えはデジタルだ、という価値観はこの状況を解決する。デジタルは大量生産できる。人間関係と恋愛を切り離し、恋愛を安価で自由に手に入れることができるようになるのだ。これは人類の発展といっても過言ではない。電波男におけるこの主張はもっと積極的な、大きな扱いを受けてしかるべきだ。

誤解を避けるために敢えて言えば、友人、家族、そういった人間関係は大切にすべきだと思う。しかし株式市場の取引に見られるような丁丁発止の人間関係は、その道の専門家だけがやればいいじゃないか。