理論派と実践派

理論派と実践派、という区分けの仕方がある。この区分けの仕方は特に恋愛についても有効で、「恋愛って何なのかよくわからないけどとりあえず情熱の突き動かされてヤってしまう」タイプと「恋愛が出来るような恵まれた状況にないまま、ひたすら恋愛について悶々と考えざるを得ない状況に追い込まれている」タイプ、と言い換えることも出来る。

理論派にしても実践派にしても、基本的な欲望の形は変わらない。いつだって望むのは自分にとってだけ都合のいい状況だ。他人に迷惑をかけなければ何をやってもいいはずだし、そして自分のやりたいことはたいていの場合「やっていいこと」の範囲内にある…そういう妄想だ。

実際には、欲望に任せて行動したのに誰の迷惑にもならなかったなんて、そんなうまい話があるわけがない。結果はいつだって、「誰かは喜んでくれたけど、別の誰かには迷惑をかけた」そんな状況だ。時には喜んでくれるのは自分しかいなかったりすることだってある。でも仕方がない。そうやって借りを背負い、罪を背負っていくのが人生というものでもある。

そこで問題になるのが、理論派と実践派の違いだ。実践派は実際に欲望を果たした代わりに、罪を背負ってしまった。そして「悪いことをしてしまった」という感覚をも持っている。この感覚から逃げたいばかりに、「自分は悪いことなどしていない」と考えるようになる。そしてまわりにいる同じように罪を背負った実践派を見て安心し、TVでさらに多くの人が自分と同じようなことをしているのを見て「自分のほうが正しい」と言い出すわけだ。でもそんなのは罪悪感の裏返しに過ぎない。本人だって完全に納得したわけじゃないんだ。

一方、理論派は、欲望を実行に移せない。好きなあの子に告白できないのだ。俺は昔、理論派が欲望を実行に移せないのは弱虫だからだ、と考えていた。だが今は違う。「自分の行動が誰かを傷つけるだろう、自分も傷つくだろう」ということがわかりきった状況下で、誰が実行できるだろうか。そういうのは強さではない。むしろ、人間が誰しも持っている恐ろしく強い欲望に流されず、「実行しない」という選択を選ぶほうがよほど強い人間といえるはずだ。よく喪男に「そんなの実際にやってみなけりゃわからないだろ、案外うまくいくかもしれないじゃないか。誰も傷つかないかもしれないぞ」とか言うやつがいるけど、ホントくそったれだな。他人の人生だと思って適当ブッこいてんじゃねーよ!死ね!…とか思います。「誰かが傷ついても別にいいじゃないか」という奴もいるが、これも最低だな。迷惑かけられても許せるのは、自分も相手に迷惑をかけてたり、相手も「すみません」とおかえしをしてくれる、そういうギブアンドテイク、等価交換の関係にあるからだ。そういう意識のない奴にはかかわりたくないし、むしろ逆に迷惑かけまくってやりたいもんだ。

まあそんなわけで、実践派は罪を背負うし、理論派は罪を背負わない。そうなると、理論派は実践派に対して、やっぱり「ずるい」という感情を持つのだ。なんだよ、お前ら他人に迷惑掛けまくった末に自分だけ幸せ気分か?ふざけんじゃねぇぞ、と。そしてひとしきり世を恨んだ後に絶望するわけだ。

実践派にしてみれば、もう周りに迷惑をかけまくってしまった以上、奇麗事を口にすることも出来ない。責められればこう言い返すしかない。それが普通だ、みんなやってる、お前らも迷惑かければいいじゃないか、と。だがね、そんなことが出来るなら理論派は最初から理論派にはなってないし、それで問題が解決しないのは目に見えてる。

俺自身は、この対立の解決案をまだ見出せていない。

ちなみに、最近の山本夜羽音海野やよいは、この実践派の女性の立場を肯定的に描いているように見える。それが俺にはいたたまれない。いや、少なくとも、山本夜羽音玄田生名義だったころは、まだためらいが描かれていたような気もするんだが…