もうすこし想像力があれば

犯人にもうすこし想像力があればこんな痛ましい事件は起きなかったのに…。凶悪事件がおきるとこんなコメントを聞くことが多いような気がする。でもこれはホントか?

たとえば自分が犯罪を犯すことを考えてみる。思い浮かぶのはうれしくない未来だ。警察から逃げ回るための特殊な能力、知識を持っているわけでもなし、そうそうバレずに逃げ回ることができるような気がしない。そうすると遠からず、警察のご厄介になる。胃の痛くなるような取調べと裁判の後、塀の中のうれしくない生活になるわけだ。看守にいじめられたり、おっかねぇ同室の仲間にいびられたり、夜ともなればオカマ掘られたり。まじめにお勤めして娑婆に帰ったところで、世間は冷たいわけですよ。「あの人、実は昔ねぇ…」噂話されちゃうわけ。もちろんまともな定職につくのも難しいだろうし、今の暮らしは望めないだろう。…とまぁ、こんなイメージを持っているわけだ(もちろん偏見ですよ)。こういう未来を想像できるような人間なら、確かに犯罪は犯さないだろうな。だってメリットがないもの。

でもねぇ、これ想像力があるかないか、とかそういう問題じゃないわけ。こういうイメージを妄想する前に、実はすでに俺の中で「犯罪はよくない」という直感的な結論が出てる。ただ、それはほんとうに直感的で感覚的なものなので、そのまんまだと理性が素直に納得できない。だから理性の部分が腑に落ちるように、それっぽい筋書きを用意しなければならないわけ。そういう「それっぽい筋書きを用意する能力」こそがつまり「想像力」なんだ、というわけだ。

よくよく考えてみると、こういう「実は最初に結論が出ている」「でも当人はそのことに気づいていない」という構図は多いんじゃないかなぁ。

ちょっと考えてみよう。たとえば理屈。理屈だってそういう面があるな。理屈のための理屈とか、屁理屈とか、そういうのがあるでしょ。こういうものも最初に結論は出てる。その結論にあわせるように理論を組み立てていくだけ。俺は合理的に、理性的に行動しているんだ、と言いながら実は全然そんなことはなかったりするわけだ。もちろん自分の行動に一つ一つ、理由を付けて説明していくことはできる。でもその結果がみんなの期待している合理性になるわけじゃないし、理性的な結果につながるわけじゃない。

卑近な視点で考えれば、理屈というのは感覚を越えるための手法なんだな。感覚の下した判断とは異なるけど、それよりもよい選択肢というのもよくある。こういう選択肢を選ぶためには感覚にばかり頼っていてはだめで、感覚ではなくて理屈に従わなければならない。それなのに、感覚を補強するために理屈を使うことがある。そういう理屈の使い方にはどれだけの意味があるんだろう。

ところで、冒頭で挙げた「犯人に持ってほしい想像力」ってのは、「想像力」というより「共感能力」のことなんだろうなぁ。