自由って何? ということに対する合理主義者への説明

自由というのは、単純に欲望を満たすことじゃない。「○○したいからする」「△△したいからする」これが欲望を満たす一番手短な方法だけど、現実的には絶対無理。もしあなたが、自由というのが「したいことがなんでもできる」ことだと考えているのであれば、それは絶対に満たされないよ。というのも、ホッブズの権利観「万人に対する万人の闘争」を考えれば明らかであるように、人間の求める権利は他者と絶対にぶつかる。ぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。残念だけどこれは現実で、どうにも変えようがない。あなたがどんなにがんばっても、どんなに正当性を叫んでも、この現実だけは変えられない。

繰り返すけど、あなたの欲望をそのまま突き進めれば他人とぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。これは現実で、変えようがない。あなたが欲望すればするほど、状況は悪化する。

だとすれば、じゃあ自由ってなんだろう? 

あなたの行動が誰かの心を傷つけてしまった。そういうことってよくある。例えば、あなたが不倫の結果妊娠してしまったりして、それを中絶してしまった場合など、だ。でも、あなたはそのことについて、誰かに責任を持たなきゃいけない必要があるの? 謝らなけりゃいけないの? 法的に言えば「あなたは謝る必要はない」ということになる。でも、これは、あなたに責任がないといっているわけでもない。つまり、あなたには謝っても、謝らなくてもいい、という自由があるということだ。そう、あなたは謝ることができる、責任を自ら引き受けることができる。あなたは自分の行動に、好きなように枷をはめることができる。これこそがまさに自由なの。三歩先のことまで考えれば、責任を持つほうが望ましいことがあるの。罪を背負うことが望ましいことがあるの。

俺達の世界は、まだまだ計算不可能性に満ち溢れていて、だからこそ時間についていえば未来に開かれているし、社会についていえば他者に開かれている。だから、新しい問題の解決法なんていうのはまだまだ、いくらだってある。あなたは自由に、問題の解決法を発見していい。挑戦していいんだ。それこそが「自由」の最も重要な意味だ。未来のために、敢えてあなたはコストを今支払うことができる。

でも、一歩先のことしか考えない人は、こういうとき、常に「責任を負わない」「罪を負わない」という選択肢しか選べない。彼らには、自由を享受する能力がない。いつも既存の問題解決法に頼ろうとする。彼らの結論はいつだって同じだ。彼らの思考は「約束問題」を解決できない。より分かりやすい、劣悪な状況へとまっしぐら、というわけ。

あなたは責任を負わなくてもいい。私は悪くなかった、と言い張ってもいい。でも、みんながそういうことを言っちゃう社会って、ホントに住みやすいの? そういう問題を考えない、考えたくないあなたは、三歩先を考える人間にはなれないし、したがって自由でもない。ただ、劣悪な状況へと突き進んでいくだけだ。自由というのはそういう概念だと俺は考えてる。