倫理ってなんだろう?

まずはちょっと、鳥蛇ノートを読んで欲しい。

 私が前回、個人的倫理と権利の正当性とは峻別すべきであるとした理由もここにあります。「法」と「道徳」とはイコールではないし、イコールであってはならないんです。

他にも、こんなことが書いてある

 「愛」は何物をも保障しません。「愛」とはあくまで「相互承認状態」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないんです。私達は「愛」に過剰な意味を付加することで、「愛」を「正当化の道具」にしてしまうんですね。

ここで正当化って言ってるのは、まさに倫理のことだよね。

次は高木さん

ただ、ソフトを作る自由があることを考えると、法的規制は難しいだろう。まず利用者の倫理観に訴えたい。

倫理は法とは違い、実効性がない。つまり、政府などによる(最終的には暴力を含む)強制力がない。しかし鳥蛇さんも高木さんも、そんな実効性のないものが他者の行為に制限をかけることを暗に願っている。どうもみんな、行動を制限するものとして、法と倫理とを対比させて語るのが好きみたいだ。ここでいう《倫理》って一体なんだろう?

逆説的な言い方をすると、「倫理? なにそれ? 何かの役に立つの?」「悪いことしちゃいけないんでしょ? 法律と何が違うの?」「宗教じゃないの?」「よくわかんねー」「めんどくさそう」ってことだ。…この反応は俺の脳内で調べました。でも《雰囲気》は分かってもらえると思う。

もう少し脳内サンプルを変えてみよう。「倫理? ああ、倫理ね、大切だよね」「近頃の○○はまったく倫理がない」「法律にしてしまえばいい」「俺は倫理的だよ」「でも倫理だけじゃやっていけないんだ。大人なんだから、分かるだろ?」こういうのもあるよね。こういう《雰囲気》も、同意してもらえるんじゃないかと思う。

《雰囲気》とは《客観的》価値観だ。エピステーメと呼んでもいい(そう呼ぶのが好きなら)。そしていま、世間にあふれてる《雰囲気》は、《倫理》を日常的*1な感覚で否定する。「意味がない」「夢みたいなこといっても仕方ない」といった文脈で。あるいは、《倫理》を計算可能な合理性の枠内に押し込めている。個人があつまり集団化する過程で爆発的に増大する複雑性の、その計算不可能性こそが《倫理》を生むことを考慮に入れない。「みんながやってる・やってない」という中間集団全体主義か、さもなければあまりに単純な唯物論だ。

俺達は神を信じない。それは合理的だからというわけではない。単に不信の文化の一員であるからに過ぎない。同じことは《倫理》にも言える。《倫理》について語る人たちは、単に《倫理》の文化の一員*2であるに過ぎない。俺だって「そうなんだよ、倫理って大事なんだよね」という感覚を持てるし、《倫理》がないがしろにされる場であっても、《倫理》を時折ちらりと持ち出すことさえやってのける。でも、それも倫理の文化の一員であるからに過ぎない。

《倫理》の文化に属していない人間に、俺達が感じているようなことが伝えられるだろうか? 彼らにはたぶん、この《雰囲気》が理解できないのだと思うんだ。彼らには倫理学者が存在することの意味がたぶん、理解できない。遠い世界の話だと思ってるんじゃないかなぁ。

だからこそ、鳥蛇さんや高木さんの話は伝わらない。どこまでも表面をかすり続ける。本田が『萌える男』で「相対主義の思考方法を知っている人間があまりにも少ない(p.208)」と書いたのはまさにこのことだ。でも、俺はこうした人たちにとっても、《倫理》が何らかの価値を持つような状態にしたい。たぶん鳥蛇さんだって、高木さんだってそうなんじゃないかと思う。

大切なのは、俺達の《雰囲気》と彼らの《雰囲気》をつなぐことだ。彼らにも有効な言葉(もうそれは言葉ですらないかもしれないけど)を見つけ出すこと。たとえば、「それは個人の倫理の問題だよね」という言い方で、ある問題を《倫理》とそれ以外に分解するとき。そういうとき、みんなが考えているような価値観とは別のところに、《倫理》っていう価値観があること。それに彼らがコミットするしないはさておき、その《倫理》というものに俺達がどんな思いを賭けているかを、それを一緒に伝えていったほうがいいんじゃないかと思うのだ。

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*1:日常的、というのも《雰囲気》と同義。

*2:この「○○の文化の一員」という言い方もやはり《雰囲気》をパラフレーズしたものだ。

書こう、書こう、明日書こう…

うーむ、書きたいことはいろいろあるのだが、時間がないせいでまとまらないな。こういう状態がいつも日記の更新を止めてしまう。

メモがわりに列挙しよう。

  • 恋愛への戦略的あいまいさの導入。近代というシステムはこうした計算不可能性を考慮に入れていない。「貧乏より金持ちのほうがいい」「ブスより美人のほうがいい」といった判断と明言を避けることで、わざと未来への見通しを悪化させる。結果的に、外見などの瞬間的に判断できる要素の価値を下げ、誠実さなどの価値を上げる。
  • 幸福主義批判。幸福主義は政治的なイデオロギーであって、個人が実存の場で扱うようなものではない。「しあわせ=欲望を満たすこと」と勘違いしたやつをいっぱい生んでしまった。結果、いくら「しあわせ」を探しても見つかるのは「欲望」だけというありさま。
  • いいわけ主義(=ウンコ議論)。ロゴス中心主義がもたらした。個人主義能力主義も、他者を切り捨てるためのいいわけとしてしか扱われてない。
  • ダーウィニアン・レフト。

キラ×キラ 夢の終わり

キラ×キラ―夢の終わり (二見ブルーベリー)

キラ×キラ―夢の終わり (二見ブルーベリー)

批評家がなしうるのは作品の隠喩を圧縮(還元)することではなく、それらを続けることだけである。だとすれば、この作品を前にして、俺は何を語れるのだろう。

できることなら、俺は錦蛇組のみんなといっしょに、兎呂にひどいことをしたい。犯されて、虐げられている、救いのない少女を見ると、もっとひどいことがしたくてたまらない。兎呂のような人生はおぞましい。決して自分で引き受けたいとは思わない。あくまで他人の人生として少女に押し付けて、その内面の苦しみを安全な場所から見下したい。泣き叫ぶのが見たい。兎呂の心が悲鳴を上げるのが見たい。自分の欲望をぶつけて壊してしまいたい。

読者の何割かは、あの性描写を残酷なものと片付けるんだろう。でも俺はアレが好きだ。ああいうのが好きなんだ。ニジマガ読者だからな。鬼畜なんだ。DQN なんだよ。

でも、俺はそれを肯定しない。自分の欲望を肯定しない。自分が下衆なのは知っているけど、下衆であることを肯定してもらおうとは思わない。自分を肯定してもらおうとは思わない。ただ、それのためだったら自分を否定しても構わない、と俺が考えているもの。それだけを肯定して欲しい。

大切なのは、そういうことじゃないのかな。

ねこみみ

俺はねこみみを愛する。それはその愛らしさのためじゃなくて、その肉食獣としての残忍さという二重性のために、だ。ねこみみは小型の肉食獣としての美しさがいっぱい、詰まっている。音を立てず歩行するときの、その筋肉の動きのしなやかさ。笑顔の裏に隠された牙。そして、肉食獣が獲物を補足するときに見せる、あの鋭い眼光。

俺の目の前のねこみみは、それを時折垣間見せる。そんな時、俺はねこみみを押さえつけ、ひどいことをしたい欲望に駆られる。たぶんこの衝動が、俺の実存の問題なんだろう。この欲望を押さえつけながら、俺はずっと生きていくんだろうな。

キャリあね。

ヒロインを一人に絞った直球勝負の作品。ぬるい。非常にぬるいんだが、しかし最近、俺はこの手のぬるさを肯定できるようになってきた。

ぬるい、ということはつまりファンタジーに過ぎない、ということだ。だが、それこそがエンタテイメントに必要なものであるし、また何がファンタジーであるのかを抜き出すことで見えてくるものもあるんじゃないのか。

  • 好きだから別れることもある、なんていうのは、現実においては体のいいファンタジーに過ぎない。
  • 努力すれば社会的に報われる、というファンタジー。ハッピーエンドには社会的成功が不可欠なの? 社会的に成功できる人間は現実的にはほんの一握りだ。作品内で幸福と社会的成功を結び付けてしまうことは、読者に無力感を与えるだけなんじゃないの?