♪トレイントレイン〜

俺が倫理的に認めがたい行為と考えているのは、弱者が、自身が弱者であることを免責の理由にし、さらに弱者を搾取する、そういう行為だ。現代の問題はこの構造をとっていることが多い。

例えばアメリカだ。かの国の立場から考えてみよう。アメリカの外交政策は基本的には孤立している。そのため、米国民からすると世界のどこから攻め込まれるか分からない、という危機感をもっているようだ。われわれは孤立している、それゆえに弱い、だからこそどんな手を使っても自分を守らなければ、と。第二次大戦以前の感覚をいまだに引きずっているわけだ。国際社会からすると「バカ言ってんじゃねぇよ、おめーが一番危ねぇんだよゴルァ」と言いたくなるが、米国民の主観としてはそうなのだ。対イラク戦争を取ってみても、アメリカにとっては自分の身を守るために仕方なくしている戦争であり、我々にとってはアメリカの身勝手な戦争である。迷惑なことこの上ない。

マスメディアもそうだ。マスメディアは憲法に謳われた言論の自由を行使するが、そもそも憲法とは政府と国民との間の「政府が国民に対してこういうことをやっちゃだめですよ」という契約だ。なんでそんなことをするかと言うと、政府は国内最強の組織だからだ。もし、やろうとするなら政府は国民に対して何でもできるわけで、歯止めが利かない。そんな政府に立ち向かうために、弱者であるマスメディアは言論の自由という武器を持っているわけだ。ところが、われわれ個人はマスメディアに比べれば遥かに弱者である。そんな個人に対してマスメディアが言論の自由を振りかざすのは、迷惑なことこの上ない。

同じことをやるにしても、弱者が強者に対して行うのと、強者が弱者に対して行うのとでは異なる。弱者が強者になったのに、いまだに弱者のつもりでふるまう行為ほど迷惑なものはない。俺の考える倫理はそこに中心がある。

モテ/非モテの問題において、女の子が非難されることは多々ある。しかし女の子の行動にもそれなりに理由があるわけだ。しかたがないとしか言いようのない面も多々ある。そういった数々の理由を踏まえたうえで、なおかつ、非難に値することがあるとすれば、俺はこの点を挙げておきたい。

自分の弱さは理由にならない。それを理由にできるのは、強者と戦うときだけである。