社会ダーウィニズム

id:SAGISAWA さんのところから孫引き。

フロムとアドルノも同じような分析しているよ。批判理論。

値段の付けやすいものと値段の付けにくいものに選択を分けて

前者を取り入れ後者を排除するように資本市場は神の見えざる手によって

オートに動くと言っている。

値段の付けやすいもの…外面(ファッション・お洒落)、物質的プレゼント、

金の掛かる遊行(遊園地等)

値段の付けにくいもの…内面(思いやりなどの心の優しさ等)、物質的でない

プレゼント、金の掛からない遊行(散歩等)

個人の労力と時間が金銭代価に常に換算されることで、値段の付けにくいもの

にすら値段が付けられ、それは往々にマイナス評価されるそうだ。

そうそう、そうなんだよ!アドルノ、いいこと言ってんじゃん。

こういう、恋愛でもなんでも市場競争にさらしてしまえばいい、という考え方は社会ダーウィニズムだし、自然主義の誤謬のひとつでもあるだろう。

私生活に密着した場では、人は本質的に等価交換による取り引き、またそういう取り引きを通じての人間関係を期待している。等価交換以外の取り引き(贈与、共同分配、市場取引)ではダメだし、取引量がゼロでもダメだ。等価交換を期待するのは、人間が本質的に持つ公正さを求める機能、つまり「ズルしている奴を見付ける」機能が働くからである…と、そのように仮定してみよう。
さて、そういう分野に市場競争を導入することで、次のような状況が生まれてしまう:

  • 市場価値の高い人間は、等価交換より高い便益を得られるので問題に気がつかない。
  • 平均的な市場価値の人間は、自分より価値の高い人間から搾取され、自分より価値の低い人間から搾取する。しかし自分自身が本質的に求めているのが等価交換であるため、どんなに取り引きを行っても満たされない。
  • 市場価値の低い人間は、取り引きによる便益が得られないので、市場から撤退する。しかし取引がゼロでは取り引きを通じた人間関係が存在しないために、満たされない。

これは承認の供給不足という問題と同じ根源なんじゃないのか。実はみんなが求めている「自己承認」というのは、なんらかの等価交換のことなのではないのかな。