返礼に返礼いたす

わざわざ回答していただいて申しわけない。なお、文中では敬称を略させていただいた。

さて、4/21 で俺が言いたかったのは、お互いの立場が違うということ、それからゾーニングという解決策についてだ。しかしそれに対する小飼氏の回答は、立場の違いなどないということ、だから小飼氏と同様の解決策を行うべきだろう、ということであった。その再反論を行いたい。

まず、迷惑について考えることにする。小飼の主張のひとつは次のようなものだ:

ヒトとは、ただそこにいるだけでド迷惑な存在なのですがなにか。

この主張には部分的に賛同できる*1。これと同じようなことを俺も4/17に述べているからだ

オタクもやはり、自然状態ではDQNなのである。

異なるのは、迷惑の大小、迷惑をうける者の不均衡、迷惑をなくす努力、それらについての考え方だ。

人間がただそこにいるだけで迷惑、行動をしても迷惑、行動をしなくても迷惑、とは言え、その迷惑の大きさと迷惑をかける相手はそれぞれ異なるはずだ。完全に正確な判断基準はないにしろ、そこそこ有効な迷惑行動の判断基準を作ることはできる。その結果、ある特定の人物や集団に迷惑が集中するのであれば、その不均衡をある程度緩和させることが必要になる。迷惑行動の分類ができていれば、それに基づいて迷惑を抑えることができるはずだ。俺はそのような立場を採っているし、社会システム、法システムも同様の立場を採る。

小飼の主張には、迷惑の大小、迷惑をうける者の不均衡、迷惑をなくす努力についての記述が見当たらない。すべて、迷惑をかけるんだからいっしょと扱われているように見える*2

次に、オタクが現在置かれた窮状を解決する救済のアプローチについて、小飼と本田の立場の違いを比較する。

小飼のアプローチは心理学的なものだ。オタクの内面を変えることにより、他人に迷惑をかけても気にしないように、他人から与えられる迷惑も気にならないようにする。それはオタク一人一人を救うための方法だ。また小飼は諸星あたるを引き合いに出し、これを手本としている。

本田のアプローチは社会学的なものとのあわせ技だ。恋愛資本主義批判とほんだシステム。オタクの置かれた状況そのものを変更する手法を提案している。また、恋愛に替わるもの萌えを提案している。これらはオタクという集団を救済するための方法だ。

それから本田のアプローチが救おうとしている対象を比較する。

小飼は「DQN男以外の人類全て」であると想定している*3

俺は「DQN男、DQN女を除くオタク」であると想定している(おそらく少数だがオタクにもDQNはいるだろう)。まず、DQNは恋愛で困っていないのでこのような救済は必要ない(困っているとすればそれはセクースで困っているのである)。そしてオタクでなければ恋愛の代替物として萌えを使うことができない。本田の提案の有効範囲はオタクに限られている。

上記は、単なる立場の違いを述べたものだ。

その上で、俺の意見は次のようなものとなる。

  • 迷惑を与える、というのは対人関係である。合意のとれていない対人関係を強いることはできない。なんらかのゾーニングによってわけるべきだ。迷惑をかけることを肯定する人達はそういう人だけで集まればよい。迷惑をかけたくない努力を肯定する人達はそういう人だけで集まればよい。恋愛という人間関係において、このようなゾーニングは有効ではないか。
  • 諸星あたるは、果たして手本になるのか。一人の女性にあのような熱烈なアタックを続けるのは、相手の女性としてみればストーカー行為でないのか。また、数多くの女性にアタックをかける方法、例えば 100 人に告白してやっと一人受け入れてくれる人が見付かるような場合は、一人当りの告白にかける時間を短くしなければならない。そういうものを人間的な関係と呼ぶことができるのか。また、オタクに一方的にそのような負担を強いることが正しいのか。

どうだろうか。

*1:小飼の論理では、人が環境に多大な迷惑を与えている→人は迷惑な存在、となっている。しかしここでは恋愛について議論しているのであるから、環境に与える迷惑はどうでもよくて、対人関係における迷惑に話をしぼるべきである。

*2:『考えようが考えまいが、行動は迷惑を伴うものなのだ。そしてその区別は実は本質的には不可能なのである。』

*3:『もう一つ。本田氏が救おうとしているのは何もオタクだけではない。「DQN男以外の人類全て」だ。オタクにだけ読ませておくのはあまりに惜しいではないか。』