「だがわれらにはその先がある!」
喪男道 理論記事と感情記事 にて覚悟氏が述べている嘆きが、俺には苦い。
覚悟氏はこう述べる。
モテ側の傾向として感情論>理論という図式があるように見えました。
もちろん、そういう傾向はあるね。で、何が問題なの?
ええっと、現実社会の中で、俺たちはさまざまな場面において、実験と論理によって編み上げられた理論を用いる。そのわけは、理論を使うほうが効率がいいからだ*1。未来予測をする場合には、占いとか気分で予測をするよりも、状況に適した理論に従って未来予測をするほうがずっとよく当たる。でも、理論を用いるまでもないことだっていっぱいある。例えば日常的な歩行。立って歩くのなんて、考えるより実際やったほうが早い。そういうものだ。
ところで、俺達非モテが欲しがって止まない恋愛についてちょっと考えてみる。その最中に、男女の間で交わしているのはなんだろう。未来予測? そうじゃない。彼らが交わしているのはコミュニケーションだ。声や、肌の接触、交わす視線。そういうものを通して行うコミュニケーションだ。
言語の発達していない動物でも共同作業ができることからわかるように、俺達人間にも周囲の人間の感情を読み取る能力、《雰囲気》を嗅ぎ取る能力が備わっている*2。それは強力で実績のあるコミュニケーション手法だ。
一方、言語というコミュニケーション手法は、あたらしい、そしていまだ進化の途上にある手法だ。それはうまくいけばより多くの異質なものとの間をつなぐことができる反面、運用が難しい。理論というのは、この言語の上に成り立っている。
さて、俺たちが今、無自覚ではあれやっていることは何かといえば、コミュニケーションだ。不特定多数の人間に対するコミュニケーション。そこで、俺たちはどちらのコミュニケーション手法を選ぶ《べき》なのか? どういう手法でコミュニケーションをとることが倫理的なのか?
…という問いかけが、言語を使ってコミュニケーションをとろうとする俺自身には跳ね返ってくる。そしてそれはおそらく、覚悟氏にも。
あーぶっちゃけ、俺は理屈で話がしたいね! 感情論は悪って言いたいね! そっちのほうが俺は楽だもん。だいたい、俺は理屈でものを考える以上、相手に対しても平等であることを心がけてるっての。でも感情で話す奴らはそんなこと考えてねーもんな。なにこの不平等。これおかしいだろ?
でもなぁ、そりゃ別の言い方をすれば『論理的で倫理的でもある俺ってカコイイ!そして俺自身のような人が好き!だいすき!』でしかないわけだ。自己愛。ナルシシズムだな。そういう自分があることは認めるが、それだけしかない自分は嫌いだ。俺はいつだって、自分とは違う、異質なものに立ち向かい、対話する、そういう自分でありたい。
そして、非モテが置かれている苦境は、むしろ非モテが多くのマイノリティ派閥の集合であるということに原因があるのじゃないか、と最近は思っている*3。
中島敦全集1
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喪男の弱いところは「それでも愛のあるセクロスがしたい」ってとこなんだよな。愛情とセクロスが、別々であってもどちらも得られるのであればそれでいいじゃないか。下らない欲望を必死になって追い掛け回す俺たちのことを理解して、泣いてくれるなら、もうそれだけでいいじゃないか。俺はそう思うんだけどな。
愛ということについて俺にいろいろ教えてくれたものはそれなりにあるが、中でもお勧めしたいのは中島敦 斗南先生だ。本で読むほうが楽だが、買うのがイヤなら青空文庫でも読める。
冷静に、相手のことを観察する。心の中で、相手の失敗、欠点ばかりを思い出す。そして相手を哀れむ。自分は如何に情のない冷酷な人間なんだろうと思う。そんな行為の裏にどれだけの愛が隠されていることか。