原理主義と権威主義

原理主義というのは、なんらかの原理原則に身を委ねる態度のことである。身を委ねる相手は原理という法則であり、法則が導き出す結論は客観的に確認可能だ。また法則にはさまざまな種類があること、適用可能な問題領域が限られていることがわかっている。例えば韓国では家族というのは血縁関係により定まる。いくらいっしょに長い間生活していても、血縁関係がない者は家族ではない。

権威主義というのは、なんらかの権威を持つ人、ブランド、概念に身を委ねる態度のことである。法則とは異なり、権威の強度は主観的なものであり、客観的な確認は不可能だ。その場その場で雰囲気という名のパワーバランスが構築され、その場にいた人間以外にはそれを理解できない。学校では人気者の意見に従うが、塾では塾の人気者に従う。また、権威主義現状追認の傾向がある。例えば日本では家族の定義が明確ではない。同じ釜の飯を食う、という言葉にあるように、いっしょに生活しているという事実が続くことで外部からは家族として扱われる。

原理主義者同士の議論は、法則の解釈と有効範囲を確認する作業である。法則は法則でしかないのだから、相手の主張を理屈で理解することができる。そのため言葉によるコミュニケーションを重視する。また法則は客観的に評価できるものであるために、間違いに気づくこともできるし、修正することもできる。その結果、より良い結論にたどり着くことができる。

権威主義者同士の議論は、問題領域においてお互いの主張する権威の強度がどの程度あるのか、そういうパワーバランスを確認する作業だ。お互いの価値観のすり合わせの作業とも言える。主観的なものでしかないために、間違いがわからないし、わかったとしても修正することがむずかしい。自分の感覚を信じ、自分と異なる感覚を持つ者を排除する。権威主義者の口癖はこうだ。「そんなこと言ったって、現実はそれじゃやっていけないんだからさぁ。」

原理主義者と権威主義者の議論は成り立たない。権威主義者は相手の主張する原理を理解しようとしない。だからいつまで経っても原理の有効性を評価するところまでいかない。権威主義者は価値観の多様性を認めない。権威主義者との議論は発展しない。

さて、日本にはなぜか権威主義者が多い。民主主義国家にもかかわらず民主主義という原理に身を委ねない。自由主義をお題目に掲げながらも自由主義という原理に身を委ねない。政府、そして上司という権威に身を委ね、ブランドという権威に身を委ねる。日本人にとっての日本人という定義自体が権威主義的ですらある。日本人とは日本国籍を持つ(という原理を満たす)人を指すわけではない。(権威を持つ)日本人が日本人と感じる相手を指す。

印象論になるが、ちょっと想像してみてほしい。アメリカの片田舎に住むおっさんが、休日の過ごしかたについて会社の上司から命令されたとする。彼は言うだろう。「休みの日にどう過ごそうが、俺の自由だろう。お前から命令されるいわれはねーよ。」しかし、自由を守るためにそうしなければいけないのだ、と説明したらどうか。今度は彼はこう答える。「自由のためか…じゃあしょーがねーな。」

一方、日本の片田舎に住むおっさんが、自由のため、という名目で休日の過ごしかたを命令されたらどうだろう。彼はこう言うだろう。「自由のため?知ったこっちゃねーよ。俺に何の関係がある?」しかし会社の上司が命令したらどうだろうか。彼はこう答える。「部長がそうおっしゃるなら…しかたないですなぁ。」これが日本と欧米の差であり、日本がまだ近代にすら達していないと判断されてしまう理由でもある。

権威主義者が多い日本においては、原理主義者は都合が悪い。思ったように言うことを聞かないからだ。少数である原理主義者は弾き出される。そういう被害者を見つづけた結果、原理主義者は権威主義の皮をかぶるようになった。おかしいな、と思いながら権威からの命令にだくだくと従う。権威主義者と、権威主義の皮をかぶった原理主義者が日本社会を構成しているのだ。

もちろん、ここで言う「権威主義者」「原理主義者」は理念型である。純粋な権威主義者などはおらず、権威主義原理主義の中間地点のいずれかにみなあてはまる。残念ながら、権威主義に対して「おかしいな」と考えてしまったことがある方は原理主義的傾向が強い。それから、利害関係が対立する相手の理屈や、子供の理屈を聞いて「なるほど」などと理解を示してしまったことがある方も。日本においては権威主義的であればあるほど社会に適応できる。敵対者や子供の理屈は「現実にはそんなこと言ってもしょうがないんだよ」と一蹴するのが正しい対応だ。原理主義的傾向を表に出してしまうと社会不適合者の烙印を押される。

ところでオタクは原理主義である。オタクの条件のひとつに「他人にとってくだらないものであっても、自分にとって面白い物を面白いと言えるか」というものがある。これは「言論の自由」という原理に身を委ねる点、パワーバランスを考慮しない点において、明らかに原理主義だ。これがオタクが日本社会から弾き出される理由でもある。

そして電波男原理主義である。「恋愛に愛が必要」という原理にこだわり、イケメンという権威に価値を見出さない点において、やはり原理主義である。そのために、電波男も日本社会から弾き出される。

権威主義者に原理を説いても無駄である。権威主義者は「言論の自由」「愛」という原理そのものには理解を示すが、その原理からどのような結論が導き出されるかについては理解できない。彼らは「言論の自由」「愛」といったものを権威として捉えているのである。彼らは自分で判断することを嫌う。

しかし実際には、日本にはまだ「権威主義の皮をかぶった原理主義者」がいっぱいいるはずだ。彼らは権威主義者のふりをしているが、原理主義的傾向が強い。彼らも実は権威主義が好きなわけではないのだ。俺たちが言葉でコミュニケーションをとることを選択した以上、原理主義者同士の対話以外に道はない。そして権威主義者と原理主義者を区別し、権威主義者との対話を避けることが必要なんじゃないだろうか。