未来予測と誠実さ

対人関係の基本を構成するのは未来予測だ。友好的になれるだろうという予測、そして敵対的であるより友好的であるほうがいいに違いない、と予測するからこそ、俺らは友好的な関係を結ぼうとするわけだ。

未来予測とは、別の言い方では信頼であり、予期であり、幻想である。根拠を説明できなければ信頼と呼ばれるだろう。確実と思っているなら予期と呼ばれるだろう。根拠がないと判断されれば幻想と呼ばれるだろう。そしてこの未来予測の精度を向上させるために必要なのが、いわゆる「真実」と世間で呼ばれてるものだ。嘘がよくないのは、未来予測を誤らせるからだ。

さて、自然科学的な未来予測については、その精度向上のために数学を使うのがよさそうだ、ということを、人間は歴史の中で学んできた。しかし人間行動の未来予測についてはどうなんだろう?

人間行動の未来予測の、その精度向上ために進化したのが「心」というものだ。他者の行動を予測するための近似したモデルとして、自分の心を利用する。高度な集団行動をする動物が、進化の過程で身に付けた能力ってわけ。

人間が他の生物に対して最も優れているのは、その未来予測の能力においてだ。自然に対しての予測で言えば、地球に落ちる隕石の心配までできる生物は他にいない。また、同種族に対する予測で言えば、冷戦の危機を乗り越えたのはまさにこの予測能力によるものであるし、囲碁や将棋のような高度な読み合いをゲームとして楽しめるのは人間のほかにいない。

この予測能力が、「囚人のジレンマ」や「共有地の悲劇」に陥ることを回避させている。例えば、君が新しい事業を始めるとしよう。そのときにこの予測能力は、「いいアイディア」「悪いアイディア」を「今はいいけど将来はひどくなることが予想されるアイディア」「今はひどいけど将来の見通しがいいアイディア」に変えてくれる。短期のメリットにだまされないようになる。結果、君はお金をドブに捨てなくても済む。

さて、ここからは俺の推測になるが、誠実さというのはこうした「短期のメリットにだまされる」ことを避けるためのものじゃないのか? どういうときに「誠実さ」を感じるのかを考えてみよう。「ミスをしたのは自分です」と、自分の利益にならない発言をするときや、「友達を裏切ることはできない」と欲望を拒否したりする行為こそが、誠実な人のすることのように思える。つまり「自分の目先の利益を追求してるだけではあんなことはできないはずだ」という事実があると、誠実であるように感じるみたいだ。

「自分が損をすることも厭わない」という姿勢だからこそ信用できる。逆に言えば「自分の利益しか求めない」という姿勢は信用できない。この人たちは、「囚人のジレンマ」や「共有地の悲劇」にすぐ引っかかると思う。だから信用できない、という判断は的を射てる気がする。

問題は、他者の行動の未来予測のために、自分の心を使うというところにある。男性か女性かによって、行動のメリットやデメリットが異なる部分があることは、分かってもらえると思う。ここで相手のことを見誤ってしまいがちなのだ。例えば攻撃性を考えよう。女性にとっては、女性を守るために攻撃的になる男性を見て、「攻撃的になるのは大変なことのはずなのに、わざわざ怒って、守ってくれるなんて、」信頼できると感じるかもしれない。しかし当の男性にとっては攻撃性は本能的に備わっているものだ。場合によっては、攻撃的な対応をしないことのほうが、怒りを抑えることのほうがより誠実な対応かもしれない。

囚人のジレンマ」や「共有地の悲劇」はそこかしこにある。誠実な相手と、協力的な友好関係を築くことが望ましい。しかし、相手と自分との違いが分からなければ、相手の誠実さは理解できない。