共感能力と価値観

こんな状況を考えて欲しい。君の目の前で、友人が非常に苦しんでいるとする。そうだな、例えば、大好きな女の子にふられたとか、そんな理由だ。君自身はその女の子のことを好きでもなんでもないかもしれないが、君の友人はその女の子の事が、本当に大好きだったことは知ってる。そんなとき、君はちょっと苦しい、いやな気分を味わうだろうか? それとも、踏みつけられた他人の足は痛くない、とばかりに、何も感じないでいられるだろうか?

何も感じない、と思い込んでいる人もいるかもしれないが、普通はこういうとき、何らかの不快感を味わうものだ。何も感じないという人はおそらく、自分の心の痛みに鈍感なだけだ。近くにいる他人の快・不快に自分が引きずられる。これが共感能力というものだ。

ところで、いきなりであるが、ジョージ秋山先生の作品にこんなせりふがある。

「女ってのはな、虚栄と快楽と打算の生き物だってことを覚えとけ」
生きなさいキキ(2)

快楽と打算、というのはいいとしよう。理解できる。でも虚栄ってなによ?

虚栄とはつまり見栄のことだ。なぜ女性は見栄を重視されるのか、と問いかける前に、なぜ男は見栄をそれほど重視しないのか、を考えてみよう。一番わかりやすいのはこういう理由だ。重要なのは自分の持つ本質的な能力や個人的な感覚であって、それらは他人の評価とは直接関係がない。他人の評価を気にするのは、あくまで間接的な影響を気にする場合だけだ。

つまり、俺たちが普段、他人の評価を(女性に比べて)気にかけないでいられるのは、単にその影響力が大したことがないからなんだろう。しかしもし、他人の価値観が自分の中に入り込んでくるとしたら? 近くにいる他人の評価結果(「この葉っぱはいい!ファックの次にいいぞ!」「あの壷はいいものだ…」)に自分が引きずられるとしたら?

共感能力はおそらく、集団行動をする生物がその進化の過程で効率よく集団行動をするために身に付けたものなんだろう。だからその能力は、生物学的なものに起因する。そして俺の考えでは、この能力には男女間で差がある。おおむね男性は共感能力が低く、女性は高い。この傾向については社会学者である宮台も「男性の適応不足、女性の適応過剰」として言及している。

女性は虚栄の生き物である。これは男性から見たときには真実だ。他者の視線を必要以上に気にするように見える。しかし男性は、《客観的》価値観から距離を置くことができる=意識しなければ《客観的》価値観を認識できない。もし、意識せずとも《客観的》価値観が自分の中に入り込んでしまうとすれば、それは果たして《客観的》なんだろうか?

女性は虚栄の生き物である。これは女性にとっては真実ではない。なぜなら、そういった女性にとって「良いこと」とは「周りからうらやましいと思われること」だ。生まれながらの共感能力がその二つを強く結びつける。そのような状況では、もはやその価値観は《客観的》なものに過ぎない、という判断が本質的に不可能だ。その女性は他者の視線を気にしているわけではなく、単純に自分自身の価値観に従っているに過ぎない。

個性や個人の価値観などというものは、共感能力の影響が小さいときにしか生まれないものなのかもしれない。強い共感能力の持ち主が、「自分の考えを持つ」「自分に固有の価値観を持つ」というのは、(オタにオタをやめさせるのと同じように)とても大変なことなのかもしれないのではないか。

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