コミュニケーションと馴れ合い

「コミュニケーション」と「馴れ合い」の違いについて、そして「言論の自由」について、最近考えている。

コミュニケーション能力というのは、利害関係が対立する相手との調整能力に他ならない。そういう意味において、コミュニケーションは馴れ合いとは違うものだ。誰とでも話ができる人間を指して、あいつはコミュニケーション能力が高い、と言う場面がよくある。おしゃべりが好きな人間を指してそう言うこともある。でもこれらは間違いだ。

端的に言えば、コミュニケーション能力とは「怒らずに、イヤだ、と言える能力」「イヤだ、という反応を怒らずに聞き入れる能力」ってことだ。利害関係が対立しない相手となら、誰だって会話できる。そうではなくて、「何を考えているのかよくわからない相手」「受け入れられない価値観を持った相手」と会話できてナンボ、ということだ。

そういう意味で、先に挙げたおしゃべりが好きな人間というのは、「馴れ合い」が好きなだけの可能性が高い。馴れ合いが好きかどうかは、コミュニケーション能力の有無とは関係ない。

そうだな、例えば教室という場所において、オタクは最初期の時点からすでに多数派と利害関係が対立している場合が多い。馴れ合いを目的とした場において、話が合わないのは致命的だ。「○○って面白いよね!」「そーなの?ふーん。」*1これが邪魔ではなくてなんだというのか。

オタクにはコミュニケーション能力が不足していると、よく言われる。これは間違いじゃないだろう。一般人のコミュニケーション能力が不足しているのと同じくらい、オタクのコミュニケーション能力も不足している。

自分に都合よいところだけを取り出して、「こういうのがお前らに足りないコミュニケーション能力ってものだよ。」とのたまったやつを、俺たちは何度も見てきた。そういう、自分自身のコミュニケーション能力不足に気づいていない、「無自覚なやつら」を指摘してこなかったことこそが、オタクのコミュニケーション不足に他ならないんじゃないのだろうか。

また、言論の自由というものもコミュニケーションと同じ問題、つまり「無自覚な奴ら」を生んでいる。

権力にしろ財力にしろ、力を持つものに媚びているような言論を保護しても意味がない。力を持つものと利害関係が敵対しているときに初めて、言論の自由は意味を持つ。誰が力を持っているのか。それは状況によって変わる。政府に対してマスメディアは弱者である。しかしオタクに対してマスメディアは強者である。

自分に都合よく「言論の自由」を行使してきた奴らを、俺たちは知っているんじゃないのか。そういう「無自覚なやつら」を指摘することこそ、言論の自由の、ほんとうの使い方じゃないのだろうか。

*1:もちろんこれは多数派→オタクにおいても、オタク→多数派においても成り立つ。