美少女的快活力

雑誌。

俺が定期購読している雑誌は少ない。特にエロマンガ雑誌は LO だけだ*1。作家の確認のために幅広くちょいちょいと不定期に買っている。こういう買い方の悪いところは、読者投稿に興味があってもなかなかやりづらいところ。LO には読者投稿ないしね。いいところは、三峯徹氏がどんな雑誌でも投稿している事実を確認できるところ。いやまったく、氏は実に偉大である。

各雑誌で「いい作家」見付けたあと、コミックスを買うことにしている*2。俺にとって、ほとんどの雑誌は作家確認のためにある。それなのに、今回雑誌を特に紹介するのはなぜか。

Cuvie 「Happy People」が掲載されていたからである。

この作品はすごい。すごい。双子の女の子と 3P でセクースする、エロマンガのシチュエーション的には他愛もない話である。しかし Cuvie はそんなところでは終わらないのだ。

本作のヒロインである双子、ちなみとちなつは、それまでさまざまなものを半分ずつ共有しあってきた。同じ男を好きになれば、当然男も半分ずつ共有だ。主人公の男にバレないように、一日交替で付き合ってきた。しかしそれでは少ない時間がさらに減ってしまうことになる。さみしい。だったら二人同時に可愛がってほしい…そういうあらすじである。

Cuvie はその双子に言わせるのだ。「ちなみとちなつという個の存在に、果たして意味はあるのかなぁって…」 …Cuvie、すげぇテーマ持ってきたな!

現代という社会において、俺たちの生活のもっとも便利なところは、周囲のものが置き換え可能になったことだ。あるブランドの製品が気に入らなければ別のブランドにすればいい。ある店の応対が気に入らなければ別の店で買えばよい。気に入らないものにしがみつく必要はない。そして俺はキモメンであり非モテなのでアレだが、周囲でひっきりなしに繰り返される、男女の恋愛模様を見ていてもそのように思う。気に入らなければ別の男にすればいい。恋人という人間すら交換可能である。

一方、現代という社会において、俺たちの生活のもっとも苦しいところは、自分すら置き換え可能であるという事実である。不愉快な仕事を拒否しても、別の人が代わりに来るだけだ。俺が死んだところでいくらでも代わりはいる。ちなみとちなつはその暗喩である。

自分にとっては、自分は特別な存在、貴重な存在なのに、他人にとっては特別ではない。大量生産品といっしょであり、価値が低い。このような認識による価値観の差が、万人に苦しい状況を生む。貴重な存在である自分が与える愛情は価値が高い。一方相手にとってみれば、安価な大量生産品のひとつである自分から受け取る愛情は価値が低い。常にこのギャップに苦しまなくてはならない。

さて、ちなみとちなつの言動と、それに対する主人公の反応を見てみよう。

「ヒロインが双子で一日交替で主人公と付き合っていた事実」を知らされた主人公は落ち込む。ちなみとちなつは「怒った?」と聞く。これは、ヒロインが交換可能と判明することで価値の変動があるのだ、という Cuvie の主張と読める。価値が下がったのだ。

ちなみとちなつから「いっしょに可愛がってほしいの」と言われた主人公は、まず喜び、次いで倫理的、道徳的なおかしさを指摘する。これは、いろいろな女の子と遊びたい、しかしそれはいけないことだ、という男の本音と建前をそのまま表現したものだ。ここで注目したいのは、建前を主張したのが男だけだということだ。ヒロインであるちなみ、ちなつはまったく倫理的、道徳的なおかしさを問題視しているように見えない。

裸になったちなみとちなつが「あたしたちの見分けつく?」と問いかけ、主人公が「すまん」、ちなみとちなつが「あやまることないよ」と返す。ここで、先ほどのちなみとちなつの態度、つまり倫理的、道徳的なおかしさに対する無関心の理由が明らかになる。ちなみとちなつは倫理も道徳も理解しているが、それでもどうにもならないこともわかっているのだ。倫理、道徳の基礎となる個性という幻想がもはや失われてしまったからだ。いまさら道徳が、倫理が何の意味を持つというのだ。だから無関心を装う。そして古い倫理をもちだす主人公には事実を突き付ける。これは旧来の倫理観に対する告発である。

先ほど掲示したセリフ、「ちなみとちなつという個の存在に、果たして意味はあるのかなぁって…」という問いかけに至り、そして「まぁそんなことはどうでもいいよね」「ごめんね」と主人公に一方的に謝罪する。このセリフひとつに、Cuvie の諦観と、そしてそれを越えようとする作家としての意志を見ることができる。Cuvie とて「置き換え可能な自分」という存在を受け入れたくないのだ。そういった Cuvie 本人の悩みをエロマンガの上にさらけだしたことについて「そんなことはどうでもいいよね」「ごめんね」と、読者に対して謝罪している。俺にはどうしてもそのようにしか読めない。しかしそのことは Cuvie の作家としての矜持を、読者にはできるだけエロで楽しんでもらおうという矜持をも同時に示している。

ちなみとちなつが「あっちゃんは変わらず『ちな』と付き合ってくれる?」と問いかけ、主人公は大好きな彼女が二倍、という「いい加減な」理由で OK する。ここが本作で Cuvie が提示した「救い」である。置き換え可能な存在であるちなみとちなつは、「いい加減な」男に受け入れられることによって救われる。これは女性にとっての救いだ。そして救いを与えた男に対して、セクースという御褒美を与える。ハッピーエンドである。

この作品は、切ない。ハッピーエンドであることが、また切ない。物語というものは、読者の、そして作家の願望を映す鏡である。願望ということは、現実には存在しないということだ。現実には、「いい加減な」男は女性に救いを与えない。そしてまじめな男もまた救いを与えることができない。というか、誰も救うことなんてできない。この作品は逆にその現実を強く意識させてしまう。

「個の存在に、果たして意味はあるのか。」その叫びだけが俺の胸に強く届く。

*1:マンガエロティクスも買っているが、これはエロマンガ雑誌に含まれるのか…?

*2:浦河おぺらのコミックスは出ないのかな。あの先生がこのまま消えてしまうのは惜しい。是非復帰していただきたい。